肩書きのない時間
市場は、宿から歩いてすぐだった。
石畳の通りに、簡易の屋台が連なっている。
色とりどりの布が風に揺れ、
籠いっぱいの花が、通りに淡い色を落としている。
焼き菓子の甘い匂い。
香草の、少し青い香り。
人の声が重なり合い、
けれど耳障りにはならない。
「……にぎやか」
エルフリーデは、わずかに目を見開いた。
王宮の市は、視察対象だった。
連邦の市場は、業務の一部だった。
――けれど、ここは違う。
誰かの成果を測る場でも、
交渉材料を探す場でもない。
「好きに歩いていいよ」
ルーカスが、自然な調子で言う。
「迷ったら、声かけて」
それだけだった。
手を引かれない。
進む方向も示されない。
エルフリーデは一瞬だけ立ち止まり、
それから、自分の足で歩き出した。
花の屋台の前で、足が止まる。
小さな鉢植え。
淡い色の花が、密やかに咲いている。
「……可愛い」
無意識に、言葉が漏れた。
「どれ?」
ルーカスが、いつの間にか隣にいる。
「この、白と薄紫の……」
「野花だね」
値札に目を落とす。
「……高くないですね」
「観賞用じゃなくて、育てる用だから」
店主が、穏やかに口を挟んだ。
「水やりも楽だよ。失敗しにくい」
失敗しにくい。
その言葉に、
エルフリーデの指先が、鉢の縁をなぞる。
「……私でも、育てられますか」
「もちろん」
店主は、少しだけ考えるように花を見てから、穏やかに頷いた。
「花はね、構いすぎると枯れる。放っといても、咲く時は咲く」
その一言が、胸の奥に残る。
ルーカスは何も言わず、代金を払った。
「え、あの……」
「持ち帰り用」
さらりと。
「部屋の窓、日当たりいいから」
エルフリーデは鉢を受け取り、
少しだけ戸惑う。
(……贈答品じゃない)
(……生活の中のものだ)
次の屋台。
果物。
焼きパン。
蜂蜜。
試食を勧められ、
戸惑いながら一口かじる。
「……甘い」
思わず、頬が緩んだ。
「よかった」
ルーカスも、ほんの少し笑う。
それだけで、胸の奥が軽くなる。
人と肩が触れそうになった時、
ルーカスが半歩前に出る。
庇うというより、
自然に流れを整える動き。
「……慣れてますね」
「人混みは、仕事で慣れた」
「お仕事?」
口にしてから、はっとする。
(……聞いてはいけなかった?)
だが、ルーカスは首を振った。
「今日は、ただの“経験談”」
穏やかに線を引く。
「ここでは、肩書きなし」
その言葉に、
エルフリーデは小さく息を吐いた。
屋台の端で、また足が止まる。
布小物の店。
刺繍の入った、細い紐。
「……これ」
指が伸びる。
首飾りにも、髪留めにもなりそうな、
飾り気のない品。
「似合うと思う」
ルーカスが、迷いなく言った。
「え……」
「色が、君の目と近い」
言葉を失う。
褒められること自体が、久しぶりだった。
「……じゃあ」
小さく、決める。
「これ、買います」
自分で選んだ。
自分で決めた。
その事実が、静かに胸を満たす。
市場を一周する頃には、
エルフリーデの歩幅は、来た時よりも軽くなっていた。
「……楽しいですね」
ぽつりと。
「うん」
ルーカスは、穏やかに頷く。
「こういうの」
少し間を置いて、続ける。
「“一緒に、何もしない時間”」
エルフリーデは、空を見上げた。
花の国の空は、広い。
(……肩書きがないって)
(……こんなに、楽なんだ)
ただのルーカスと、
ただのエルフリーデ。
市場の喧騒の中で、二人は肩を並べて歩いていた。
名前を呼ばれることもない。
役割を問われることもない。
花を見て、立ち止まり、甘いものを口にして、笑う。
それだけの時間。
「……戻りましょうか」
エルフリーデが、そう言った。
“帰る”ではなく、“戻る”。
その選び方に、
ルーカスは一瞬だけ目を細める。
「うん」
短く答える。
鉢植えを抱え直し、
エルフリーデは歩き出す。
その歩幅に、もう迷いはなかった。
花の国の市場は、
今日も変わらず、にぎやかだ。
けれど――
彼女の中で、確かに何かが変わった。
働かなくても、
役に立たなくても、
ただ、ここにいていい。
その感覚を、心から“楽しい”と思えた午後だった。




