中庭
中庭は、宿の奥にひっそりと抱え込まれるようにして存在していた。
建物に四方を囲まれているため、風はほとんど入らない。
その代わり、花の匂いが逃げ場を失い、空気の中にやわらかく溜まっている。
甘すぎない。
土と水と、葉の青さが混じった匂い。
石畳は白すぎず、長い年月を吸い込んだ色をしていた。
磨かれすぎていないおかげで、光を反射しすぎない。
午後の日差しが落ちても、目に痛くならない。
中央には、小さな噴水。
豪奢な彫刻はなく、縁も低い。
水は高く跳ねず、一定の高さから、静かに落ち続けている。
――音が、優しい。
水が石に触れるたび、短く、丸い音が響く。
規則的なのに、数を数えたくならない音。
噴水の周囲には、花が咲いていた。
揃えて植えられているわけではない。
誰かが計算した配置でもない。
白い花の間に、薄桃。
その隣に、陽を吸ったような黄色。
背の低いもの、高く伸びたもの。
蔓を伸ばし、石の縁をなぞるように咲く花もある。
――好き勝手なのに、落ち着いている。
エルフリーデは、回廊沿いの長椅子に腰を下ろした。
背もたれは低く、身体を預けすぎない造り。
「座る」ことだけを許す椅子だ。
膝の上には、薄く羽織った上着。
医師の言葉を思い出し、ゆっくりと息を吸う。
花の匂いが、肺の奥まで届く。
一息ごとに、身体の内側が静かになる。
(……ここ、音が少ない)
完全な静寂ではない。
だが、急かす音がない。
誰かに呼ばれる足音も、
次の指示を告げる声もない。
噴水の水音と、遠くで誰かが歩く気配。
それだけ。
花弁が一枚、ふわりと落ちる。
拾わない。
追わない。
ただ、落ちたのを見ている。
「気に入った?」
隣から、低い声。
振り向くと、ルーカスが立っていた。
今日は手ぶらだ。
それだけで、ここが“仕事の場所じゃない”と分かる。
「……はい」
返事は、自然に出た。
「綺麗で……静かです」
ルーカスは、小さく頷いた。
「この国、花を“見せるもの”だと思ってない」
そう言って、噴水の方へ視線を向ける。
「生活の延長にあるもの、って感覚らしい」
確かに。
ここには、誇示がない。
咲いていること自体が、目的じゃない。
ルーカスも、長椅子に腰を下ろした。
距離は、肩が触れない程度。
近すぎず、遠すぎない。
同じ中庭を、同じ角度で見る位置。
しばらく、言葉はなかった。
噴水の水音。
花の匂い。
午後の光が、ゆっくりと石畳を移動していく。
王宮なら、この沈黙には意味を求められた。
ここでは、意味がいらない。
「……もし」
エルフリーデが、ぽつりと口を開く。
「この旅で、何も起きなかったら」
指先が、膝の上で重なる。
「誰にも報告できることがなくて、成果もなくて」
少し、間を置く。
「それでも……いいんでしょうか」
ルーカスは、すぐには答えなかった。
噴水の水が、また一段、落ちる。
「いい」
短く、迷いなく。
「むしろ、それが理想だ」
エルフリーデは、驚いて彼を見る。
「理想……?」
「ああ」
花に視線を向けたまま、続ける。
「君は今まで、“起きたこと”でしか価値を測られてこなかった」
責めるでもなく、断定するでもなく。
事実として置く声。
「だから、“何も起きない時間”が怖い」
胸の奥が、静かに鳴る。
「でも、回復って大体そういうものだ」
何も起きない。
何も決まらない。
何も達成しない。
「それで、ちゃんと意味がある」
エルフリーデは、噴水を見つめた。
水は、変わらず落ち続けている。
溢れもせず、涸れもしない。
ただ、そこにある。
「……中庭、いいですね」
今度は、はっきりと言った。
「宿の奥にあって」
「見ようとしないと、見えない」
ルーカスは、わずかに笑った。
「君向きだ」
その言葉に、胸の奥が、静かに温かくなる。
エルフリーデは、背筋を伸ばすのをやめ、
少しだけ、背もたれに身体を預けた。
誰にも評価されない。
誰にも求められない。
花は、ただ咲いている。
――ここでは、回復していい。
噴水の音は、午後の光の中で、変わらず静かに続いていた。




