小旅行へ
出発の日は、よく晴れていた。
医療院の門前には、いつもより人影が少ない。
療養区画から外へ出る時間帯は、あらかじめ調整されているらしい。
エルフリーデは、小さな鞄を二つ抱えて立っていた。
中身は、私服が数着と、最低限の身の回りの品だけ。
静養中に買い足した服を、そのまま詰めただけだ。
(……本当に、これだけでいいのかしら)
不安がよぎる。
旅といっても、今までの彼女の人生では、
移動は仕事、外出は視察。
そう刷り込まれてきた。
だが。
「それ以上、持たなくていいよ」
すぐ横から、声。
ルーカスだった。
今日は外套ではなく、旅装に近い上着。
色味も抑えめで、目立たない。
「足りないものは、全部向こうで揃う」
さらっと言う。
「……向こう、って」
「行き先」
ルーカスは、医療院の外へ視線を向けた。
門の外。
そこに、一台の馬車が停まっている。
外見は、普通だった。
装飾も派手さもない。
色合いも地味で、商人用と言われても通りそうな造り。
だが。
「……あれ、ですか」
「ああ」
エルフリーデは、一歩近づいて、違和感に気づく。
馬の質がいい。
御者の姿勢が、明らかに訓練されている。
そして――
扉が開いた瞬間。
「……え」
思わず、声が漏れた。
中は、別世界だった。
座席は厚く、柔らかく、身体を包み込むような造り。
揺れを吸収するためか、床も壁も布張り。
窓際には、小さなクッションまで置かれている。
(……ふかふか……)
というか。
(……これ、移動用じゃなくて、休ませる用では……?)
「……あの」
半歩下がって、ルーカスを見る。
「これ、普通の馬車ですよね?」
「普通だよ」
即答。
一切、悪びれない。
「長時間座っても疲れない、ただの移動手段」
エルフリーデは、言葉を失った。
(……基準がおかしい)
だが、突っ込む前に。
「乗ろう」
そう言われて、自然と差し出される手。
断る理由も、考える時間もない。
乗り込むと、座面が想像以上に沈んだ。
身体が、勝手に楽な姿勢になる。
「……」
エルフリーデは、じっと座席を見下ろした。
「……これ、誰が用意したんですか」
「僕」
「……いつの間に」
「医師の許可が出た、その日の夜」
さらっと。
「行き先も?」
「決めてた」
「宿も?」
「当然」
「……護衛とか」
「最低限」
全部、即答だった。
(……私、何もしてない……)
不安と、安堵が、同時に来る。
「行き先はね」
ルーカスが、ようやく説明する。
「フローレンティア王国」
聞き慣れないが、響きは柔らかい。
「ここから馬車で数日だ」
近い。
それはつまり――
何かあれば、すぐ戻れる距離。
「小国だけど、気候が安定してる。交易路の中継地で、政治色も薄いところ。だから安心していいよ」
安全で、静かで、逃げ場もある。
(……療養用として、完璧すぎる)
「……観光、ですよね」
念のため確認する。
「療養だよ」
即答。
「観光は、体調次第」
線引きが、相変わらず厳しい。
馬車が、ゆっくりと動き出す。
医療院の門が、視界の端で遠ざかる。
エルフリーデは、膝の上の鞄を見下ろした。
自分が用意したのは、これだけ。
服を数着と、身の回りの品。
それ以外のすべてを、ルーカスが整えていた。
「……私、ほんとに何もしてませんね」
ぽつりと漏らす。
ルーカスは、少しだけ考えてから言った。
「してる」
「……何を」
「行く、って言った」
それだけ。
その一言が、胸に静かに落ちた。
馬車は、街道へ出る。
石畳から土の道へ。
揺れはあるはずなのに、ほとんど感じない。
エルフリーデは、背もたれに身体を預けた。
(……旅行だ)
仕事じゃない。
責任も、役割もない。
ただ、連れて行ってもらうだけの移動。
そんな経験は、初めてだった。
馬車の中で、静かな時間が流れる。
窓の外には、穏やかな景色。
街道沿いの畑。
ゆるやかな丘。
遠くに見える、白い雲。
これから向かうのは、花の国。
まだ知らない場所。
――そして。
エルフリーデは、ふと気づいた。
この旅について、
「戻る予定」や「期限」を、誰も口にしていないことに。
いつまで。
どこまで。
何を達成したら。
そういう条件が、一切ない。
(……いいんだ)
そう思った瞬間、胸の奥が、すっと軽くなった。
隣を見る。
ルーカスは、外の景色に目を向けたまま、何も言わない。
だが、馬車の揺れに合わせるように、さりげなく体勢を調整している。
――彼女が、楽な姿勢でいられるように。
それを指摘するのは、野暮だと思った。
エルフリーデは、目を閉じる。
揺れる馬車。
柔らかな座席。
遠ざかっていく医療院。
これは、逃避ではない。
任務でもない。
ただの――旅だ。
そう思えるまでに、
自分は、ちゃんと取り戻されていたのだと。
馬車は、花の国へ向かって進む。
ゆっくりと。
確実に。




