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穏やかな午後

医療院の庭は、午後の光に包まれていた。


高い建物に囲われているせいで、風は弱い。

その代わり、花の匂いが逃げずに留まっている。


エルフリーデは、石造りの回廊に置かれた椅子に腰掛けていた。

背中には、まだ薄いクッション。

医師の「念のため」という言葉が、そのまま形になったような配置だ。


膝の上には、毛布。

もう必須ではないが、取り上げられもしない。


(……歩くの、楽になったな)


ほんの数日前までは、立ち上がるだけで息が乱れていた。

今は、庭を一周しても、少し休めば戻ってくる。


回復している。


その事実が、少しだけ怖くもあった。


「――調子は?」


聞き慣れた声。


顔を上げると、ルーカスがいた。

今日は外套を着ていない。


「……はい」


即答できるようになったのは、つい最近だ。


「歩行距離、伸びてるね」


「医師に、少しずつならって」


そう答えると、ルーカスは小さく頷いた。


そのまま、隣に立つ。

座らない。

逃げ場を塞ぐ立ち位置でもない。


――話がある時の距離。


エルフリーデは、なんとなく背筋を伸ばした。


「……何か、ありましたか」


ルーカスは、一拍置いた。


急がない。

言葉を選んでいる時の間だ。


「医師と、さっき話してきた」


その一言で、エルフリーデの肩がわずかに強張る。


(……制限が増えるのかしら)


だが。


「短時間の移動なら、許可が出た」


予想と違う言葉が落ちた。


「え……?」


思わず、聞き返す。


「療養目的で、負荷の少ない行程なら問題ないって」


淡々とした説明。

だが、目線は外さない。


「……移動、ですか」


「うん」


ルーカスは、少しだけ視線を逸らした。


「ずっと、ここだと息が詰まるだろ」


エルフリーデは、言葉に詰まった。


否定できない。

だが、肯定するのも、少し怖い。


「……仕事は」


「ない」


即答。


「書類もない」


「……視察、とか」


「させない」


きっぱり。


その言い切りに、思わず小さく笑ってしまった。


「……じゃあ」


視線を落としながら、聞く。


「どこへ、行くんですか」


ルーカスは、ようやく彼女を見る。


その目は、いつもの冷静さより、少しだけ柔らかい。


「花が多い国がある」


それだけ。


国名も、政治的説明もない。


「標高が低くて、気候が穏やかで」


淡々と続く。


「この時期は、丘一面が花で埋まる」


「観光地、ですか」


「そうなるね」


少し、照れたように言う。


エルフリーデは、しばらく黙ったまま、庭を見た。


風に揺れる葉。

遠くで、水の音。


(……旅行)


その言葉が、ゆっくりと胸に落ちてくる。


療養のため。

回復のため。


でも――


「……二人で、ですか」


問いは、静かだった。


ルーカスは、迷わなかった。


「他に、誰がいる?」


それは確認ではなく、前提だった。


心臓が、少しだけ早くなる。


「……私」


指先が、毛布の端を掴む。


「迷惑に、なりませんか」


ルーカスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「なる」


即答。


「でも」


一拍。


「それでいい」


はっきりと。


「療養なんだから。誰かに迷惑をかけるくらいで、ちょうどいい」


エルフリーデは、息を吐いた。


(……そういう理屈)


彼らしい。


「……医師は」


「条件付きで許可した」


「条件……」


「無理をしないこと」


「疲れたら、すぐ休むこと」


「嫌なら、すぐ帰ること」


一つ一つ、指折り数える。


「全部、君基準」


エルフリーデは、ゆっくりと顔を上げた。


「……私、行ってもいいんでしょうか」


自分でも驚くほど、弱い声だった。


ルーカスは、少しだけ間を置いてから答える。


「行ってほしい」


命令じゃない。

提案でもない。


願いに近い声音。


「君が、“回復するためにどこかへ行く”のを、ちゃんと一緒にやりたい」


その言葉に。


胸の奥で、何かが静かにほどけた。


「……少しだけなら」


小さな返事。


でも、確かな一歩。


ルーカスは、ほっとしたように息を吐いた。


「じゃあ、決まりだ」


それだけ言って、微かに笑う。


「準備は、全部僕がやる」


「……過保護ですね」


「今さら?」


そう返されて、エルフリーデは小さく笑った。


庭の花が、風に揺れる。


遠くでは、医療院の鐘が静かに鳴っていた。


――旅の話が出るには、十分すぎるほど、穏やかな午後だった。

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― 新着の感想 ―
 婚前旅行ですね、わかります
「君が、“回復するためにどこかへ行く”のを、ちゃんと一緒にやりたい」 ここで涙が出そうに……
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