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できないこと

医療院の午後は、相変わらず静かだった。


窓から入る光はやわらかく、時間が進んでいるのかどうかも分からない。

エルフリーデは、鏡の前に座っていた。


手元には、一本の結い紐。


――いつも、ルーカスが使っているものと同じ色。


(……できるはず)


そう思って、もう三回目だった。


指を動かす。

髪を分ける。

編もうとする。


だが。


「……あ」


途中で、指が絡まる。

力のかけ方が分からない。

思った方向に流れない。


ほどく。

もう一度。


結果は、同じだった。


三つ編みのはずが、どこか歪で、

横に流すつもりが、首に引っかかる。


(……変)


鏡の中の自分を見て、眉をひそめる。


「……おかしい」


まとめ髪自体は、ずっとやってきた。

仕事の時は、自分で結っていた。


なのに。


横になっても邪魔にならない位置。

あの、絶妙な角度。

あの、引っ張られない感触。


どうやっても、再現できない。


(……私が、不器用なわけじゃ……)


言い訳しかけた、その時。


「――何してるの」


背後から、低い声。


びくっと肩が跳ねる。


「っ……!」


振り返ると、扉のところにルーカスが立っていた。

外套を脱ぎかけたまま、状況を一目で理解した顔。


鏡。

途中で崩れた編み髪。

手に持った結い紐。


一瞬。


ほんの一瞬だけ、ルーカスの口元が緩んだ。


「……エルフリーデにも、できないことあるんだ」


悪意はない。

からかいでもない。


ただの、事実確認みたいな声。


エルフリーデは、少しだけむっとする。


「……できます」


即答。


「今日は、たまたま……」


「うん」


あっさり。


「たまたま、ね。」


そう言いながら、近づいてくる。


「ちょっと貸して。」


結い紐を、自然に取られる。


「……自分でやるつもりだったんですが」


「その結果がこれ?」


鏡越しに視線が合う。


言い返そうとして、言葉に詰まった。


確かに。

結果は、惨敗だ。


「……」


ルーカスは、何も言わずに背後に立つ。


いつもの位置。

いつもの距離。


指が、髪に触れる。


その瞬間。


(……あ)


力の入れ方が、全然違う。


引かれない。

でも、ほどけない。

流れが、自然に整っていく。


さっきまで言うことを聞かなかった髪が、

嘘みたいに従っていく。


「……難しいでしょ」


ぽつりと、ルーカスが言う。


「僕は子供の頃からやってるから慣れてるけどね」


エルフリーデは、目を瞬いた。


「……そう、なんですか」


「そう」


指は止まらない。


「君、起きてる時の結い方しか知らない」


「仕事用の、ね」


胸の奥が、少しだけ静かになる。


編み終えた髪を、いつもの位置に流す。

結い紐を留める。


「はい」


鏡に映る自分は、

もうさっきの不格好な姿じゃなかった。


枕に当たらない。

首元が、落ち着く。


「……」


エルフリーデは、しばらく見つめてから、小さく言った。


「……悔しいです」


ルーカスは、少しだけ笑った。


「そっか」


でも、すぐに続ける。


「でも」


頭の上から、軽く手が置かれる。


「できなくていいことも、ある」


エルフリーデは、何も言えなくなった。


できないこと。

任せていいこと。


それを許された感覚が、

じんわりと胸に広がる。


「……じゃあ」


小さな声。


「できるようになるまで……」


「なるまで?」


「……結ってください」


一瞬の間。


それから、短い返事。


「うん。分かった」


当たり前みたいに。


その日の午後、鏡の前の失敗は、

誰にも責められなかった。


代わりに。


「できない」ことを知ったはずなのに、

エルフリーデの心は、少しだけ軽くなっていた。


――療養中でも。


できないことがあっても。


悪くない。


そう思えたのは、

たぶん、初めてだった。


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― 新着の感想 ―
この、繰り返される医療院の静かさが心地よいですね。本当にワーカホリックのエルフリーデが休めていることを実感できます。ルーカスの心情もちゃんと伝わっています。きっと1人になったら踊っているんだろうなとか…
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