静養
昼下がり。
医療院の中でも、静養用に設えられた特別区画は、外界の音から切り離されていた。
治療棟の喧騒も、消毒薬の強い匂いも、ここまでは届かない。
庭に面した一角には、刺激の少ない薬草だけが植えられている。
効能よりも、呼吸を整えるために選ばれたもの。
風に揺れる葉の音と、水盤に落ちる光が、ゆっくりと時間を刻んでいた。
どこかで、鳥の声。
エルフリーデは、窓際に置かれた長椅子に腰掛けていた。
正確には――座らされていた。
膝には、質の良い毛布。
手には、温度を保つための蓋付きの器に注がれた薬湯。
そして、その斜め前。
ルーカスがいる。
書類に目を落としてはいるが、視線は定期的にこちらへ向く。
あからさまではない。
だが、完全に監視だ。
(……仕事、ない)
視線を巡らせる。
机はない。
紙もない。
ペンもない。
――意図的に、置かれていない。
ここは、思考や判断を持ち込ませないための部屋だ。
回復以外の役割を、すべて切り離すための空間。
それが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。
エルフリーデは、そっと薬湯を置いた。
「……あの」
「ダメ」
即答だった。
視線も上げない。
「まだ何も言ってません」
「言おうとしたでしょ」
読まれている。
「……少しだけ、確認したいことが……」
ルーカスは、ようやく顔を上げた。
無言で。
その視線だけで、理解する。
(……あ、これ、逃げ道がない)
「確認って?」
「……進捗、とか……」
「存在しない」
また即答。
「君の仕事は、今は“回復”」
淡々とした声。
「それ以外は、全部僕の仕事」
エルフリーデは、小さく眉を寄せた。
「……負担、では?」
その言葉に、ルーカスの手が止まった。
一拍。
「負担?」
ゆっくりと、反芻する。
「君が一人で全部抱えてた時は?」
問い返し。
エルフリーデは、答えられない。
「今は、役割分担が正常に戻っただけだよ」
何でもないことのように言う。
だが、その言葉が、胸に沁みた。
(……正常)
王宮では、存在しなかった言葉だ。
沈黙。
風が、カーテンを揺らす。
柔らかな布が、光を含んで揺れる。
エルフリーデは、膝の上の毛布を、少しだけ握りしめた。
「……何もしないでいると」
小さな声。
「自分が、空っぽになった気がして」
ルーカスは、すぐには答えなかった。
書類を閉じ、立ち上がる。
足音は静かで、医療院の床を踏む重さすら感じさせない。
ゆっくりと近づき、エルフリーデの前にしゃがみ込む。
視線の高さを合わせる。
「空っぽじゃない」
はっきりと。
「詰め込みすぎただけ」
指先で、そっと毛布を整える。
乱れていた端を、丁寧に。
「今は、空けてるところ」
喉が、きゅっと鳴る。
「……戻れますか」
無意識に、聞いていた。
何に、とは言わない。
元の自分に。
ちゃんとした場所に。
役に立つ状態に。
ルーカスは、迷わなかった。
「戻る必要、ない」
静かな否定。
「君は、壊れてない。削られてただけだ」
一拍。
「削った分、ちゃんと取り戻そう」
その言い方が、あまりにも自然で。
エルフリーデの肩から、ふっと力が抜けた。
「……今日は」
ぽつりと。
「何を、したらいいですか」
ルーカスは、少し考えるふりをしてから言う。
「昼寝」
「……それだけ?」
「それだけ」
微笑む。
「できたら、合格」
エルフリーデは、思わず小さく笑った。
(……難易度、低い)
でも。
毛布に包まれ、
風の音を聞いて、
誰にも急かされない。
それが、こんなにも安心するなんて。
ルーカスは、元の椅子に戻る。
「僕は、ここにいる」
それだけ告げて、また書類を開いた。
逃げない。
消えない。
この特別室で、
この時間だけは。
エルフリーデは、ゆっくりと目を閉じた。
――今日は、働かなくていい。
――役に立たなくても、咎められない。
その事実が、胸の奥で、やさしく広がっていく。
甘すぎるくらいで、ちょうどいい。
だって。
これは、
取り戻した後の話なのだから。




