幕間 失敗の記録
ヴァルディス記録院、第二閲覧棟。
以前と変わらない。
高窓から落ちる白い光。
整然と並ぶ書架。
紙を繰る、乾いた音。
――何一つ、乱れていない。
「……以上が、アルディア王国側の現況です」
報告は簡潔だった。
「王女エルフリーデは、すでに王宮から離脱。現在は連邦側の管理下にあります」
声に、悔恨はない。
感情もない。
壮年の男は、机に肘を置いたまま、視線を記録から外さなかった。
「……想定より、早いですね」
誰かが、控えめに言う。
「王宮が、少々焦りすぎましたか」
「ええ」
男は、即座に頷く。
「“消耗させる”前に動かしたのが、失敗でした」
断定だった。
責任の所在を問う言葉は、出ない。
記録院において、失敗は“判断結果”であって、罪ではない。
「連邦側の反応は?」
「迅速です。返還要求、同盟国への即時共有、医療保護の明文化。すでに“被害者”としての地位を確定させています」
「なるほど」
男は、わずかに口角を上げた。
「では、撤退ですね」
あまりにも、あっさりした言葉だった。
「はい」
書記が頷く。
「これ以上の関与は、記録が汚れます」
「アルディア王国には?」
「責任は、全て彼らに帰します。“独断による過剰行為”として整理可能です」
男は、満足そうに息を吐いた。
「よろしい。では、本件はここまで」
机上の書類に、そっと指が触れる。
エルフリーデ・フォン・シュトラール。
かつては「回収候補」だった名。
今は、記録から外される対象。
「優秀ではありましたが……」
誰かが、ぽつりと言う。
「少々、周囲が騒がしくなりすぎました」
男は、静かに頷いた。
「国家資源にも、“時期”があります」
「壊れる前に回収する。今回は、それに失敗した」
それだけの話だ。
「では、次の案件へ――」
そう言いかけた、その時。
扉が、叩かれた。
控えめだが、規定より早い。
記録院では、明確に異常なタイミングだった。
入ってきたのは、若い書記だった。
表情が、わずかに硬い。
「……失礼します」
声が、低い。
「外務記録局より、至急の共有です」
男が、視線を上げる。
「どこから?」
書記は、一瞬だけ間を置いた。
「……雲漢帝国です」
その一語で。
室内の空気が、目に見えない形で変質した。
誰も、声を出さない。
男は、ゆっくりと姿勢を正す。
「……内容を」
書記は、書簡を差し出した。
封は、すでに解かれている。
だが、用紙の質、文体、印章。
どれもが――
意図的に抑制されすぎている。
男は、読み始める。
一行。
二行。
途中で、手が止まった。
表情は変わらない。
だが、部屋にいる全員が理解した。
――これは、抗議文ではない。
「……“遺憾”」
男が、低く呟く。
そこには、非難もない。
要求もない。
ただ、事実の確認だけが、淡々と並んでいる。
近時、貴国評議機構が
他国王族に関する一連の事案に
間接的に関与したとの情報を得た
当方としては、
当該人物が
我が国に縁を持つ重要人物と
公的・私的双方において
深い関係にあった点を、
看過できない
誰かが、息を呑む。
「……お気に入り、ですか」
誰かが、そう言った。
男は、即座に首を振った。
「違う」
静かな否定。
「これは、“保護対象”という意味です」
続きを、読む。
本件について、
既に当該人物は安全を確保されたと認識している
したがって、
これ以上の説明や釈明は求めない
ただし
その一語で、空気が張り詰める。
貴国評議機構が
今後、同様の事案に関与する場合、
当方は
貴国を
“信頼に足る調停主体”とは
見做さない
沈黙。
それは、制裁の宣言ではない。
――もっと、長期的で、逃げ場のない処置だった。
「……これは」
書記が、声を絞り出す。
「外交、ですか?」
男は、書簡を閉じた。
「いいえ」
即答だった。
「これは、“線引き”です」
誰も、反論しない。
雲漢帝国が、直接制裁を課すことは稀だ。
だが、“信頼を外す”ことはある。
それが意味するのは――
「……評議会としての立場が、一段落ちますね」
誰かが、ぽつりと言う。
男は、頷いた。
「ええ。非公式の場から、徐々に」
「商談、調停、仲介……」
「全て、“別の国”を経由することになる」
それは、時間を奪う。
発言力を奪う。
気づかぬうちに、影響力を削る。
「……王宮を使ったのは、間違いではなかった」
男は、そう結論づけた。
「ただ、その前提を一つ、見誤りましたね。」
書類を、静かに重ねる。
「本件は、完全撤退とします」
異論は出ない。
「記録は?」
「残します」
即答。
「“判断ミスの事例”として」
男は、立ち上がった。
「国家資源は、大切に扱わねばなりません」
その言葉は、以前と同じだった。
だが。
今度は、
“誰の資源だったのか”を誤認した重さが、確かに含まれていた。
記録院の時計が、静かに時を刻む。
ヴァルディスは、また一つ学んだ。
――壊す前に回収できるとは限らない。
――そして、
触れてはいけない“所有権”は、
条約よりも深い場所に存在することがある。
薄曇りの午後。
この国は、今日も表向き、何もしていない。
ただ、静かに
取り返しのつかない失点を、記録に残しただけだった。




