仕事禁止
朝。
医療院の一室に、やわらかな光が差し込んでいた。
高い窓から入る朝日が、白い石の壁に反射している。
王宮の寝室よりも、ずっと明るい。
エルフリーデは、ゆっくりと目を開けた。
(……朝)
その認識と同時に、身体が条件反射で動こうとする。
――起きる。
――身支度を整える。
――次にやるべきことを考える。
頭が、勝手に順序を並べ始めた。
上体を起こそうとして、肩に鈍い痛みが走る。
「……っ」
思わず息が詰まった。
それでも、布団から出ようとした、その時。
「何してるの」
すぐ横から、低い声。
驚いて顔を向けると、椅子に座ったルーカスがいた。
外套は脱いでいるが、背筋はまっすぐだ。
――いた。
昨夜も、確かにいたはずなのに。
それでも、視界に入った瞬間、胸の奥がふっと緩む。
「……おはようございます」
反射的に言う。
「おはよう」
短い返事。
ルーカスの視線が、ゆっくりと彼女の動きに落ちた。
「……で」
視線だけで問いかける。
「どこへ行くつもり?」
エルフリーデは、はっとして自分の状態に気づいた。
布団を押しのけ、起き上がりかけていた。
足を下ろす寸前だった。
「……あ」
言い訳より先に、正直な言葉が出る。
「……行かなきゃ、と……」
執務室、と言いかけて、言葉を飲み込む。
ここに、そんな場所はない。
ルーカスは立ち上がった。
一歩で距離を詰める。
早い。
静かで、迷いがない。
エルフリーデの額に、軽く指が触れた。
そのまま、押し戻される。
「却下」
短く。
「……でも」
「却下」
今度は、少しだけ声が低い。
「医師の診断、聞いたよね」
「……聞きました」
「禁止事項、覚えてる?」
エルフリーデは、小さく頷く。
「……判断。文書作成。調整業務……」
言いながら、声が弱くなる。
ルーカスは、淡々と頷いた。
「正解」
そして続ける。
「起きてすぐ、やるべきことを考えるのも禁止」
「……え」
それは、言われていない。
「今、何を考えてた?」
答えに詰まる。
考えていたのは――
今日やらなければならないこと。
滞ると困る人間の顔。
自分が抜けた穴。
全部だ。
「……考えないようにしてました」
ルーカスは、短く息を吐いた。
怒ってはいない。
ただ、理解している顔だった。
「無理だよね」
そう言って、布団を整え直す。
「戻って」
戸惑いながらも、エルフリーデは横になった。
掛け直される毛布。
丁寧すぎるほどの手つき。
「……何もしないと」
小さく、声を出す。
「置いていかれる気がして……」
役に立っていない感覚。
自分が抜けても回る世界への恐怖。
ルーカスは、少しだけ視線を和らげた。
「不安になるのは、普通だ」
それから、はっきりと言う。
「でも君は今、休まされてるんじゃない」
エルフリーデを見る。
「回復するために、ここにいる」
仕事、とは言わない。
それでも意味は同じだった。
「倒れたままだったら、取り戻した意味がなくなる」
低い声。
押しつけないけれど、揺るがない。
「……それに」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「君が壊れたら、困る人間が多すぎる」
一瞬、視線が逸れる。
「僕が一番困る」
エルフリーデの胸が、きゅっと縮む。
「……ルーカス様」
呼んだ声は、頼りなかった。
ルーカスは誤魔化すように咳払いをした。
「朝食は後で来る。医師の許可が出た分だけ」
「あの……書類は」
「存在しない」
即答だった。
「この部屋に、紙は一枚も入れさせてない」
徹底している。
エルフリーデは、ゆっくり息を吐いた。
(……逃げ場、ない)
なのに。
胸の奥が、少しだけ温かい。
「……分かりました」
そう言うと、ルーカスはほんのわずかに口元を緩めた。
「よろしい」
椅子に座り直す。
「今日は、何もしなくていい」
「眠くなったら寝て、起きたら天井でも見てな」
「……それ、苦手です」
正直な感想だった。
ルーカスは、少し考えてから言う。
「じゃあ、僕がいる」
エルフリーデは目を見開いた。
「……お仕事は?」
「僕のは、できる」
さらっと。
「君のは、ない」
線引きは明確だった。
エルフリーデは、毛布の端を指でつまむ。
(……過保護)
でも。
(……嫌じゃない)
「……少しだけ」
「うん?」
「少しだけ……このままで」
ルーカスは、何も言わずに頷いた。
その仕草だけで。
エルフリーデは、安心したように目を閉じる。
――今日は、止まっていい日。
そう思えた朝は、久しぶりだった。




