病院
連邦の医療院は、王宮のそれとはまるで違っていた。
白い石造りの建物。
装飾は少なく、派手さもない。
だが、廊下には薬草と煮沸した水の匂いが満ちている。
――“治すための場所”の匂いだ。
エルフリーデは、簡易寝台に横たえられていた。
船での応急処置の包帯はすでに外され、手指は新しい布で丁寧に保護されている。
天井を見上げながら、ぼんやりと思った。
(……また、横になってる)
働いていない。
判断もしていない。
指示も出していない。
胸の奥が、ざわつく。
理由は、分かっていた。
(……このまま、何もしていなかったら)
(……次に呼ばれるのは、いつだろう)
仕事をしていない時間は、次の命令が飛んでくるまでの“空白”だった。
王宮では、そうだった。
「――診察を始めます」
低く、落ち着いた声。
現れたのは、レクシア王立医療院の主任医師だった。
白衣ではなく濃紺の長衣。
胸元には、医療院の紋章。
彼はまず脈を取り、次に瞳を覗き込み、肩にそっと手を置いた。
「……力を抜いてください」
その一言で、エルフリーデの身体が、わずかに強張る。
(……また、何か言われる)
(……足りない、とか)
だが、医師は責めるような表情を一切見せなかった。
診察は、静かに、淡々と進む。
食事の内容。
睡眠時間。
作業時間。
意識を失った回数。
一つ一つ、評価ではなく、事実として拾い上げていく。
エルフリーデは、正直に答えた。
もう、取り繕う理由が思いつかなかった。
最後に、医師は記録板を閉じた。
小さく、深く息を吐く。
「……分かりました」
その声には、判断を下す者の重みがあった。
ルーカスが一歩前に出る。
「どうだ」
短い問い。
医師は、エルフリーデを見たまま、はっきりと言った。
「この方は、長期間にわたり、回復の余地がない状態で使われ続けています」
逃げ道のない断定。
「栄養不足、慢性的な睡眠欠如、神経性疲弊。加えて、手指の損傷と発熱を繰り返した形跡があります」
エルフリーデは、思わず視線を伏せた。
(……やっぱり)
(……壊れてたんだ)
だが、医師は続ける。
「これは労働ではありません。消耗です」
静かな声。
怒鳴らない。
責めない。
だからこそ、言葉が深く刺さる。
「今後、最低でも数週間の安静が必要です」
エルフリーデの指先が、わずかに動いた。
「……あの」
掠れた声。
「仕事は……」
医師は、即座に首を振った。
「禁止です」
断言だった。
「判断、文書作成、調整業務。考えること自体も含めて、今は許可できません」
「……それでは」
言葉が、自然と零れる。
「周囲に、迷惑が……」
医師は、初めて眉を寄せた。
「迷惑、ですか」
問い返す。
「あなたが休むことで破綻する体制なら、それは体制の欠陥です」
きっぱりと。
「あなたの責任ではありません」
その言葉に、エルフリーデの呼吸が、わずかに乱れた。
医師は続ける。
「医療院として、正式に記録を残します。この方は――公務不能状態です」
公務不能。
頭が、勝手に意味を歪めようとする。
不要。
失格。
切り捨て。
だが。
「“今は”です」
医師は、はっきりと言った。
「回復のための時間を確保する、という意味です」
ルーカスが、静かに口を挟む。
「それでいい」
低い声。
「君が埋めていた穴は、本来、最初から存在してはいけなかった」
エルフリーデは、唇を噛んだ。
(……分かってる)
(……でも)
医師が、最後に告げる。
「ここは、休むための場所です。何もしないことを、責められません」
そして、はっきりと言った。
「回復することが、今のあなたの仕事です」
――仕事。
その言葉に、胸の奥が、ほんのわずかに緩んだ。
エルフリーデは、ゆっくりと目を閉じた。
まだ、落ち着かない。
まだ、怖い。
それでも。
――ここでは、“何もしていない”ことで切り捨てられない。
その事実だけが、静かに、身体に残っていた。




