表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

121/146

医務室

船が港を離れてから、どれほど時間が経ったのか、エルフリーデには分からなかった。


揺れは穏やかだった。

だが、医務室の空気は、張り詰めたままだ。


白いカーテン。

整然と並ぶ金属器具。

消毒薬の匂いが、鼻の奥に残る。


エルフリーデは、簡易ベッドの上に横になっていた。

意識はある。

だが、輪郭が曖昧で、思考がうまく繋がらない。


瞼を閉じているつもりでも、光が滲む。


「……失礼します」


低い声が、静かに落ちた。


連邦側の医師だった。

年嵩の男で、動きに無駄がない。


形式的な挨拶の後、すぐに手が伸びる。

エルフリーデの手首に指を当て、脈を取る。


その瞬間、ほんのわずかに、眉が動いた。


何も言わない。


次に、手。

包帯を外す。


割れたままの爪。

塞がりきらない傷。

薄く、何度も繰り返し開いた痕。


医師は、短く息を吐いた。


「食事は?」


問いは簡潔だった。


エルフリーデは、途切れ途切れに答える。


「……パンと、水を」


それ以上、聞かれなかった。


聴診器。

呼吸の音。

肩に手が置かれた瞬間、身体が、わずかに震える。


「……すみません」


反射的に、そう言っていた。


医師は、そこで初めて顔を上げる。


「謝る必要はありません」


淡々とした声だった。

感情を交えない分、はっきりしている。


「痛みは?」


「……分かりません」


正直な答えだった。


痛いのか、苦しいのか。

もう、区別がつかない。


医師は、しばらく黙ったまま、器具を置いた。

記録用紙に、何かを書き留める。

ペン先の音だけが、やけに大きく響く。


「栄養状態が、かなり悪い」


淡々と告げられる事実。


「命に別状は?」


ルーカスが、低く問う。


一瞬の沈黙。


医師は、慎重に言葉を選んだ。


「……現時点では、ありません」


だが。


「ただし」


その一語で、張り詰めた空気が、さらに固くなる。


「この状態が続いていれば、そう遠くないうちに、命に関わります」


断言だった。


そして、医師は視線を落としたまま、続けた。


「誤解されやすい点ですが」


ペンを置き、静かに言う。


「以前、同じ量の執務をこなしていたかどうかは、関係ありません」


ルーカスが、わずかに視線を動かす。


「一度、適切な生活環境を経験した人間の身体は」


医師は、事実だけを積むように言葉を選んだ。


「身体が、それを“通常”として処理しなくなります」


淡々とした説明だった。

慰めも、婉曲もない。


「これは衰弱ではありません。拒絶反応です」


重い沈黙。


「休息、栄養、安全。それらを知ったあとで、再び遮断されれば、身体は先に止まります」


ルーカスは、短く息を吐いた。


「……つまり」


「はい」


医師は、即答した。


「この扱いを“執務”と呼んだ者がいるのなら」


記録から目を離さずに、言う。


「正気を疑います」


怒鳴らない。

責め立てない。


だからこそ、重かった。


「今は、絶対安静です」


「仕事はさせない。判断もさせない。回復を、最優先にします」


ルーカスは、短く頷く。


「当然だ」


医師は、視線を上げる。


「……それと」


わずかに、声の調子が変わった。


「記録は、すべて残しますか」


ルーカスは、迷わなかった。


「残してくれ」


低い声。


「一字一句だ」


医師は、黙って頷いた。


それで、十分だった。


処置が始まる。

点滴。

包帯の巻き直し。


エルフリーデの意識は、ゆっくりと沈んでいく。


その途中で、かすかに聞こえた。


「……寒くない?」


ルーカスの声。


毛布が引き上げられる。

その動きは、驚くほど慎重だった。


「……大丈夫」


言おうとして、声にならない。


代わりに、指が、彼の袖を掴む。


力はない。

それでも、確かに。


ルーカスは、離さなかった。


船は、静かに進む。


王宮から、確実に離れながら。


エルフリーデは、毛布の温もりの中で、思考を手放していく。


ただ一つだけ。


――ここでは、壊れなくていい。


その感覚だけが、

ゆっくりと、身体に染み込んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 ふぁいやぁああああッ!(*`ω´*)ノ┌┛)`ω゜).':;・、
抑圧され搾取されることが当たり前だった場所に連れて行かれたエルフリーデさまが、適応障害や学習性無気力症状に陥るのは当たり前だと思うので、私にはお話が納得できる展開でした。 転生も時戻りも無い、まだ若い…
誘拐の経緯と今回の診断記録を元に王宮を理詰めで追い込んでぐうの音も出ないほど締め上げて欲しいですね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ