腕の中の温度
王宮の中庭は、静まり返っていた。
静かすぎる、と言った方が正しい。
整えられた石畳。
手入れの行き届いた植え込み。
整列した近衛。
すべてが「平常」を装っている。
――その中心に、王宮の人物が揃って立っていた。
第一王子。
第一王女。
評議院の重鎮数名。
揃いも揃って、何が起きているのか理解していない顔だ。
ルーカスは、足を止めた。
ほんの一瞬。
それだけで、空気が変わる。
殺気。
抑えていたはずのものが、意図せず滲み出た。
(……ああ)
(こいつらか)
(エルフリーデを、ここまで追い込んだのは)
視線を向けただけだ。
それだけで、数人が息を呑む。
近衛の一人が、無意識に剣の柄へ手を伸ばし――
その場で刃を抜けば、問題が拡大する。
――そう理解して、手が止まった。
ルーカスは、誰にも名乗らなかった。
名乗る必要がない。
今、この場で彼が何者かを理解していないのは、王宮側だけだった。
「……あなたがたが」
低い声。
抑えている。
だが、抑えているからこそ分かる。
一線を越えれば、戻らない声だ。
「エルフリーデを管理していた“責任者”ですね」
第一王子が、遅れて口を開く。
「貴殿は――」
最後まで言わせなかった。
視線を、切る。
興味がない。
王子でも、王女でもない。
今のルーカスにとって重要なのは、一つだけだった。
――彼女が、どこにいるか。
そして。
彼女は、そこにいた。
中庭の端。
近衛に囲まれ、支えられていなければ崩れる状態で、立たされている。
その瞬間、ルーカスの中で、何かが音を立てて歪んだ。
(……細い)
最初に思ったのは、それだった。
記憶の中のエルフリーデより、明らかに細い。
肩の線。
首元。
顔色。
制服ではない。
明らかに仕立ての悪い、王女の服。
(……似合ってない)
彼女は、あんな服の中で縮こまる人間じゃない。
視線が合う。
一瞬、彼女の目が揺れた。
――信じていない。
助けが来るとは、思っていない目だ。
それが、決定打だった。
ルーカスは、歩き出した。
王宮側へ向けた言葉は、それきりだ。
近衛が制止しかける。
短い言葉が交わされ――
剣から手が離れた。
「……お通りください」
道が、開いた。
誰も止めない。
止められない。
彼女の前に立ち、名前を呼ぶ。
「……エルフリーデ」
返事を待たずに、続けた。
「遅くなったね」
それでも、まだ彼女の目は揺れていた。
だから。
「迎えに来たよ」
瞬間、彼女の膝が崩れかけた。
(……限界だったか)
腕を伸ばす。
躊躇はない。
支えた瞬間、想像以上に軽かった。
「……っ」
息を詰める。
抱き留めた身体は、熱が低い。
筋肉が落ちている。
力が、入っていない。
爪。
指先。
包帯の下から、
血の滲みと、治りきっていない傷が見えた。
(……何日だ)
(何日、これを放置した)
背中に回した手が、怒りでわずかに震える。
彼女が、か細い声で名前を呼ぶ。
「……ルーカス……?」
幻を確かめるみたいな声。
胸が、軋む。
まず、事実だけを返す。
「いる」
それでも、彼女の力が抜けきらないのが分かった。
だから、もう一度。
「ちゃんと、いる」
それ以上言えば、声が乱れると分かっていた。
彼女は、完全に体重を預けてきた。
弱々しく、エルフリーデの手が外套の布を掴む。
もう、気を張れない身体だ。
「……私……」
言葉にならないのを待って、被せるように。
「もう、頑張らなくていい」
背中に回した手に、わずかに力を込めて。
「君は、十分やった」
エルフリーデの瞳から、涙が落ちる。
「帰ろう」
ルーカスは、ゆっくりと振り返る。
王宮の人物たちを見る。
今度は、はっきりと。
殺意を、隠さなかった。
「――覚えておいていただきたい」
静かな声。
だが、逃げ場のない響き。
「彼女は」
腕の中のエルフリーデを、わずかに引き寄せる。
「あなた方の所有物ではない」
第一王女が、反射的に声を上げかける。
だが、最後まで出なかった。
「彼女は」
そこで、言葉を切った。
「連邦の官僚であり、シュトラール公国の養女であり、レクシア王国の保護下にある人物です」
淡々と、事実を積む。
「それを」
視線が、冷たく刺さる。
「“壊れるまで使った”」
沈黙。
誰も、反論できない。
できるはずがない。
彼女の状態が、すべてを物語っている。
「今日は、返還のために来ました」
それは、この場で使うための言葉だ。
「――次は、清算です」
その言葉の意味を、この場にいる全員が理解した。
戦争ではない。
処刑でもない。
もっと、逃げられない形の清算だ。
ルーカスは、エルフリーデを抱き直す。
彼女は、もうほとんど意識がない。
それでも、
無意識に外套を掴む指だけは、離れなかった。
(……大丈夫だ)
心の中で、何度も言う。
(もう、離さない)
王宮を背にする。
誰も、追ってこない。
追えるはずがない。
この日、王宮は悟った。
第三王女を失ったのではない。
触れてはいけない人間を壊しかけた報いが、これから来るのだと。
そしてルーカスは、
腕の中の軽すぎる温もりを確かめながら、
ただ一つだけを誓っていた。
――二度と。
――二度と、この温度を手放さない。




