静かになる世界
昼下がり。
王宮の空は、やけに澄んでいた。
それが、ひどく虚しかった。
エルフリーデは、執務室の椅子に座ったまま、手を止めていた。
書類は目の前にある。
ペンも、確かに握っている。
それなのに、文字はもう意味を成さなかった。
――疲れた。
そう思った瞬間、それが負けだと分かっているから、
その言葉を、心の中でさえ避けてきた。
でも。
(……もう、動けない)
その思考は、抵抗もなく、静かに落ちた。
扉が、開く。
ノックはない。
「第三王女殿下」
近衛の声は低く、急いている。
命令を伝えるためだけの声だ。
「移動を命じられています」
理由は告げられない。
エルフリーデは、ゆっくりと立ち上がった。
足元が揺れたが、誰も気に留めない。
廊下を歩く。
いつもより、人が多い。
それでも、誰一人、目を合わせない。
――ああ。
(……また、何かある)
叱責か。
押し付けか。
あるいは、別の役目か。
どれでもよかった。
もう、どうでもよかった。
中庭へ続く扉が開いた瞬間、風が頬を撫でた。
外。
久しぶりの、外の空気。
青い空。
白い雲。
あまりにも、綺麗だ。
その中央に、人がいた。
王宮の人間とは違う、立ち方。
距離の取り方。
周囲の空気の持ち方。
(……?)
視線が、自然とそこへ引き寄せられる。
一人、こちらを見ている。
黒い外套。
赤い長髪。
整った姿勢。
微動だにしない視線。
――そんなはずがない。
心が、先に否定する。
(……だって)
(……来るわけ、ない)
そう思った、その瞬間。
その人が、ゆっくりと歩き出した。
石畳を踏む音が、やけに大きく響く。
距離が、縮まる。
近衛が制止しかけ、低い声が交わされる。
何を言っているのかは、聞き取れなかった。
気づいた時には、道が開いていた。
その人は、目の前で立ち止まった。
「……エルフリーデ」
名前を呼ばれる。
それだけで、世界が歪んだ。
(……違う)
(……来られるはずがない)
疲れ切った思考が、必死に現実を否定する。
だって。
ここは王宮で。
自分は連れ戻されていて。
誰かが、迎えに来るなんて――
「遅くなったね」
低い声。
謝罪でも、弁明でもない。
「迎えに来たよ」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
膝が、勝手に力を失う。
立っていられない。
足から力が抜けるのを感じた瞬間、腕を取られ、引き寄せられた。
強くはない。
けれど、確かに逃がさない力。
「……あ」
声は、喉で潰れた。
肩に、額が触れる。
布越しに伝わる、確かな体温。
(……あったかい)
それだけで、涙が溢れそうになる。
「……ルーカス……?」
名前を呼ぶ声は、震えていた。
本当にいるのか。
幻ではないのか。
彼は、ほんのわずかに身を屈め、
低い声で言った。
「いる」
その声は、確かに現実だった。
「ちゃんと、いる」
その一言で。
必死に張り詰めていた何かが、
音もなく解けた。
エルフリーデの指が、外套の布を掴む。
力は弱い。
それでも、必死だった。
「……私……。」
言葉にならない。
謝りたいのか。
縋りたいのか。
それすら、分からない。
ルーカスは、何も言わなかった。
ただ、背中に手を回し、静かに、支える。
「もう、頑張らなくていい」
囁くような声。
「君は、十分やった。」
その一言で。
涙が、落ちた。
王宮の中庭で。
人目のある場所で。
そんなことは、もうどうでもよかった。
(……助けが、来た)
(……本当に)
エルフリーデは、完全に身体を預けた。
立つ理由も。
抗う理由も。
もう、なかった。
「帰ろう」
そう言われて、初めて理解する。
――ああ。
(……私、帰れるんだ)
王女としてでも。
駒としてでもなく。
“エルフリーデ”として。
彼の腕の中で、世界は、ようやく静かになった。




