届く書簡
昼下がり。
王宮の評議院棟は、平常通りに機能していた。
文官が行き交い、書類が運ばれ、決裁の遅延と責任の所在が、いつも通り曖昧なまま循環している。
停滞した秩序。
澱んだ日常。
その均衡が崩れたのは、音も予兆もなく――
受付台に、二通の書簡が置かれた時だった。
最初に異変を察したのは、若い書記だった。
封蝋。
紋章。
用紙。
形式が、重い。
一通ではない。
二通、重ねて置かれている。
左に、レクシア王国の王印。
右に、シュトラール公国の公印。
いずれも、外交儀礼上の最上位書式。
書記は、言葉を失った。
宛名は簡潔だった。
――アルディア王国 王宮評議院 御中
個人名はない。
部署名もない。
責任の所在を、最初から限定しない書き方だった。
書記は即座に上官を呼び、上官はさらに上を呼んだ。
書簡は、開封される前から、周囲の空気を変えていた。
※
会議室。
第一王子レオナルトが入室した時、すでに全員が着席していた。
その光景に、わずかに足が止まる。
「……何だ」
返答はない。
机の中央に並べられた封書を見て、ようやく理解する。
「……レクシア王国」
「……シュトラール公国」
声は、かすれていた。
年嵩の評議員が、淡々と告げる。
「正式抗議文――ではありません」
一拍。
「包括的返還要求書です」
空気が、沈降する。
封が切られた。
まず、レクシア王国。
読み上げられる声には、感情が一切含まれていない。
貴国が行った
第三王女エルフリーデ・アルディアに対する一連の行為について、
以下の条約・協定・慣例に違反している事実を確認した。
――以下。
その一語が、宣告だった。
一、連邦基本条約 第三条
(加盟国相互の主権尊重および領域不可侵)
二、同条約 第七条
(連邦域内における個人の移動の自由)
三、外交慣例協定 第二項
(照会・確認手続きの非強制原則)
四、国際人身保護規約 第五条
(公的権力による恣意的拘束の禁止)
五、航路利用協定 付則第一
(軍事・準軍事的船舶による民間人移送の制限)
一つなら、解釈で逃げられる。
二つでも、交渉の余地はある。
五つ。
しかも、いずれも中核条文。
誰かが、無意識に喉を鳴らした。
特に、「照会」を名目としつつ、本人の自由意思を確認しないまま船舶による越境移送を行った点については、悪質性が極めて高い。
悪質性。
評価語が、明確に記されている。
よって本件は、外交的齟齬ではなく、制度的誘拐行為として扱われる。
誘拐。
続いて、シュトラール公国。
文面は、さらに冷たかった。
エルフリーデ・フォン・シュトラールは、当公国の養女であり、その身分は家族法および貴族法により保護される。
貴国の行為は、当公国の家族権への侵害であると同時に、貴族間不可侵慣例への重大な違反である。
数名の評議員が、明確に顔色を失った。
貴族間不可侵。
国家より先に尊重される、暗黙の線。
また、当該人物がレクシア王国公認の立場にあったことを踏まえ、本件は単独案件ではなく、二国間同時侵害として整理される。
逃げ道は、消えた。
よって、当公国はレクシア王国と立場を共有し、本件に対し協調行動を取る。
返還要求は、即時かつ無条件とする。
応じない場合、貴国が締結している以下の条約について、一時停止または破棄を含む対応を検討する。
列挙される条約名。
通商。
航路。
関税。
安全保障。
王宮の循環系、そのものだった。
最後の一文。
本書簡は、警告ではない。
最終確認である。
沈黙。
レオナルトは、言葉を発せなかった。
「……知らなかった」
掠れた声が、ようやく零れる。
誰も、擁護しない。
年嵩の評議員が、静かに言った。
「問題は、知っていたか否かではありません。行為があったかどうかです」
そして、付記。
本書簡は、当該人物の安全を確認するための使節と同時に送付した。
使節は、すでに王都近郊に到着している。
到着。
すでに。
会議室の空気が、完全に死んだ。
この時になって、王宮は理解した。
第三王女を取り戻したのではない。
世界との境界線を、自ら踏み越えただけだったのだと。




