地獄に帰ってきただけ
夜。
王宮の奥、第三王女の私室に隣接した小さな執務室には、まだ灯りが残っていた。
広くはない。
もともと「簡単な確認作業」を想定して設えられた部屋だ。
だが今は、机の上だけでなく、床際や壁際にまで書類箱が積まれ、
本来の用途を思い出す余地もない。
エルフリーデは、椅子に座ったまま背もたれに寄りかかることもせず、
ただ正面を向いていた。
ペンを取る。
書く。
次の紙を引き寄せる。
それを、何度繰り返したかは分からない。
時計を見る習慣は、もうなくなっていた。
時刻を確認しても、焦りが増えるだけだと、身を以て知っている。
今日も、朝からずっと同じだった。
目を覚ます。
王宮にいた頃、着せられていた服に腕を通す。
朝食と呼ぶには心許ないものを口に入れ、
執務室に座る。
第一王子からの差し戻し。
第一王女からの感情任せな追加案件。
文官たちの押し付け。
「第三王女なら分かるでしょう」
その便利な言葉だけが、正確に回ってくる。
誰も感謝しない。
誰も労わらない。
誰も責任を取らない。
それでも――
止まれば回らなくなる場所だけは、誰よりも正確に把握している。
だから、止まれない。
机の端には、冷めきった水差しと、固くなった黒パン。
昼に運ばれてきたものだが、ほとんど手は付けられていない。
空腹はある。
だが、それより先に処理しなければならない書類が、常に視界を塞いでいた。
エルフリーデは、地方領主からの抗議文を一枚引き寄せる。
言葉は強い。
だが、中身は薄い。
要求を整理し、譲れる部分と譲れない部分を切り分ける。
過去の類例を思い出し、文言を整え、
責任が一点に集中しない形へ落とし込む。
手は、勝手に動く。
(……これも)
(……本当は、私の仕事じゃない)
そう思った瞬間、その考えを途中で切り捨てる。
「私の仕事じゃない」と考える余裕は、ここでは贅沢だった。
書き終え、署名欄を空ける。
次の書類。
隣国との外交文書。
強すぎる表現を削り、含みを持たせ、拒否とも同意とも取れない位置に落とす。
――連邦でやっていた仕事と、何一つ変わらない。
違うのは。
ここでは、誰も止めてくれないということだけだ。
連邦では、無理をすれば理由を問われた。
倒れる前に、止められた。
成果は、正当に評価された。
それを、特別扱いだと思ったことはない。
ただ――
それが「普通」だと、教えられただけだった。
だから。
今、身体が拒んでいるこの感覚は、単に限界が近いというだけではなかった。
一度、違う生き方を知ってしまったせいで、もう同じやり方では、身体が動かなくなっている。
指先が、じん、と痛んだ。
慣れているはずの量だった。
それでも、身体がついてこない。
その痛みが、どこから始まったのか、もう曖昧になっている。
指先だったはずなのに、手首へ、腕へと広がり、今では身体のどこが痛いのか、はっきりしなかった。
痛みは、いつの間にか作業の一部になっていた。
割れた爪は、何日も前から治っていない。
包帯を巻き直す時間もなく、手袋の中で擦れて、赤く滲んでいる。
それでも、ペンは止めない。
止めた瞬間、すべてが崩れると知っているからだ。
ふと、視界の端が揺れた。
文字が、二重に見える。
「……」
息を吸おうとして、うまくいかない。
胸が、浅くしか動かない。
エルフリーデは、ペンを置いた。
ほんの一瞬。
ほんの一拍。
それだけのつもりだった。
だが、身体が、言うことを聞かない。
椅子の背に、わずかに体重を預ける。
それだけで、視界が暗くなる。
(……まずい)
(……昔なら)
(……これでも、続けられた)
そう思った瞬間、その考え自体が、ひどくおかしいと気づいた。
昔は、これを「普通」だと思っていた。
疑いもしなかった。
今は違う。
――今は、戻れない。
立ち上がろうとして、膝が笑った。
机に手をつく。
書類が、数枚床に落ちる。
拾う余裕はない。
隣の扉――寝室へ続く扉が、少しだけ開いている。
そこまで行けば。
ベッドに倒れれば。
仕事は、明日になればまたできる。
――そう思った、その時。
脳裏に浮かんだのは、穏やかな声だった。
「最大限、警戒して」
ルーカス。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
(……私)
(ちゃんと、戻るって言ったのに)
連邦の執務室が、一瞬だけ思い出される。
整った机。
必要な時に差し出される書類。
意見を言えば、聞かれる環境。
そして――
「君はよくやっている」と、はっきり言ってくれた人。
(……今なら、分かる)
あれが、どれだけ守られていたか。
足が、前に出た。
一歩。
それだけで、限界だった。
エルフリーデは、寝室の敷居を越えたところで、力を失った。
倒れ込む。
ベッドの端に身体が当たり、
柔らかな感触が受け止める。
意識が、急速に遠のいていく。
(……ルーカス)
名前を呼ぼうとして、声にならない。
(……ごめんなさい)
(……でも)
(……私、もう……)
その続きを考える前に、
世界は、静かに暗転した。
机の上には、処理途中の書類。
床には、落とされた紙。
灯りだけが、何も知らない顔で、部屋を照らしていた。
――エルフリーデの一日は、まだ終わっていなかった。
終わらせる権利を、彼女は持っていない。
ただ、身体が先に限界を迎えただけだ。




