届かない
監査用会議室は、静かだった。
紙をめくる音。
ペン先が羊皮紙を擦る音。
それだけが、規則正しく続いている。
窓はあるが、外は見えない位置に設えられている。
監査用としては合理的だ。
――閉じ込めるには、ちょうどいい。
(……もう、面会は始まっている頃だ)
意識しないようにしていた思考が、ふと浮かぶ。
午前十時。
照会開始予定時刻。
同行できないと分かっていた。
だから昨夜、あれほど言った。
――最大限、警戒して。
それでも。
(……クソ)
その時だった。
扉が、控えめに叩かれた。
「……失礼します」
入ってきたのは、監査局の人間ではなかった。
連合商務調整局の、若い職員だ。
その時点で、胸の奥が冷える。
「統括官。業務連絡です」
監査官が、ちらりと視線をやる。
「短く済ませてください」
「はい」
職員は一歩進み、声を落とした。
「港湾管理局から、航路履歴の自動照合で異常が出ました」
その瞬間。
ルーカスの指が、ぴたりと止まる。
「……異常?」
「はい。“照会案件”に紐づく人物移動です」
差し出された紙には、
船籍番号、出航時刻、積載名目が整然と並んでいた。
(……船?)
(照会で?)
目を落とす。
――数秒。
それで、十分だった。
「……アルディアの船」
低く、確認するような声。
「照会案件で?」
職員が、困ったように頷く。
「本来、該当しないはずなのですが……」
(当然だ)
照会は、確認だ。
移送じゃない。
ましてや、船を使う理由は一つもない。
「……出航先は」
「現時点では未確定ですが、連邦外航路に接続可能な申請が出ています」
ルーカスは、静かに目を閉じた。
(……やられた)
怒りではない。
驚きでもない。
分かっていたことが、起きただけだ。
目を開く。
「“確認”で船を動かす国は」
低く、吐き捨てる。
「最初から、交渉する気がない」
監査官が、怪訝そうに眉を寄せた。
「……何か問題でも?」
ルーカスは、顔を上げない。
「いいえ」
嘘だ。
だが、今はそれでいい。
「業務です」
(……王宮だけじゃない)
(……後ろに、いる)
それを証明する術はない。
だが、確信はあった。
ここからは――時間との勝負だ。
「通話管を」
短く告げる。
監査官が、一瞬ためらう。
本来、統括官が港湾警備へ直接命令を出す権限はない。
少なくとも、書類上は。
だが。
誰も、止めなかった。
その沈黙が、権限の話ではないことを示していた。
通話管を取る。
「港湾警備司令部。こちら__」
名乗りは、最低限。
だが、声色だけで十分だった。
「現在、照会案件に紐づく船舶が出航している。
境界灯通過前であれば、即時保留を」
――止めろ、とは言わない。
“保留”。
制度の内側で使える、最大限の言葉。
間。
通話管の向こうで、明確に空気が変わる。
「確認する。該当船の現在位置を報告してくれ」
本来なら、理由と承認経路を求められる場面だ。
「了解しました」
即答だった。
疑義も、確認要求もない。
本来なら、あり得ない。
「近衛詰所へも連絡を」
続ける。
これも、本来なら職権外だ。
だが。
「既に動かしています」
返答は、早すぎた。
すでに話は通っていた。
通話管から、報告が続く。
「該当船、現在減速なし。通常航行」
「境界灯、視認」
ルーカスの喉が、わずかに鳴る。
「……まだ越えていないな?」
「はい。並走距離に入りました」
――いける。
判断は正しい。
指示も最短だ。
あとは――間に合うかどうか。
通話管の向こうで、風の音が混じる。
間。
ほんの、半拍。
「……境界灯、通過を確認しました」
世界が、静かに止まった。
「……了解した」
声は、驚くほど平坦だった。
「全隊、引き揚げろ」
通話管を置く。
机の上に、静かに音が落ちる。
(……一歩)
(……本当に、あと一歩だった)
怒鳴らない。
机も叩かない。
そんなことをしても、意味はない。
「記録官」
背後に控えていた書記が、息を詰める。
「本日付で記録を残せ」
淡々と。
「第三王女エルフリーデの身柄移動を、“本人同意の確認が取れていない越境移動”として」
書記のペンが、わずかに止まる。
この記載は、統括官単独では、かなり危うい。
しかし。
「承知しました」
拒否はなかった。
ルーカスは、静かに立ち上がった。
今は、取り返せなかった。
それだけだ。
だが。
(……ここからは)
(制度の話じゃない)
扉へ向かう。
(……エルフリーデ)
間に合わなかった。
守れなかった。
だが。
(……必ず、取り戻す)
それは誓いでも、感情でもない。
確定事項だ。
扉が、静かに閉まる。
――連邦の線は、越えられた。
次に越えられるのは、
王宮が「安全だ」と信じている、その境界だ。
その時、
誰が代償を払うかは――もう、決まっている。




