幕間 雑務姫の居なくなった王宮
王宮の執務棟は、奇妙な静けさに包まれていた。
人がいないわけではない。
むしろ、文官の数は以前と変わらない。
それでも――
書類が、動いていなかった。
机の上には、封を切られたままの外交文書。
返答期限を赤字で囲まれた嘆願書。
数字が合わないまま放置された帳簿。
どれも「誰かが次に処理するはずだった」ものだ。
「……第三王女殿下の引き継ぎ、ここにあるはずだが」
年配の文官が、分厚い束を抱えたまま呟く。
確かにある。驚くほど丁寧な引き継ぎ書が。
案件の背景、関係者の利害、注意すべき事項、今後の選択肢。
――だが。
「……長いな」
若い文官が、途中で頁を閉じた。
「判断が要る部分ばかりだ。これは……殿下の決裁が前提だな」
その“殿下”は、今どこにいるのか。
※
第一王子レオナルトは、王都郊外の別邸にいた。
豪奢な別荘だった。
白い石で組まれた回廊は庭へと開かれ、大きく開いた扉の向こうには、陽光を弾く水盤と、南国の花々が揺れている。
風に乗って、甘い果実酒の香りと、ゆるやかな音楽が流れ込んでいた。
第一王子レオナルトは、長椅子にだらしなく身を預けている。
上衣は脱ぎ捨てられ、日に焼けた肌がそのまま晒されていた。
薄絹一枚のドレスは、格式ある宮廷の場には到底ふさわしくない仕立てで、身体の線を誇示するように張り付き、肩口から背にかけて、無遠慮な素肌を晒している。
その姿は、とても他国の王女とは思えないものだった。
彼女は杯を一つ手に取り、それをレオナルトの唇へと運んだ。
「ねえ、レオ」
囁くような声。
「さっき、また文官が来てたわよ」
レオナルトは、気だるげに笑い、酒を受け取る。
「放っておけ」
杯を傾けながら、もう片方の手でミレーネの腰を引き寄せた。
「どうせ急ぎじゃない。
前はさ、気づいたら全部終わってたじゃないか」
机の上には、未開封の書類が数束。
だが、誰の視線もそこへ向くことはない。
ミレーネはくすりと笑い、彼の肩に頬を寄せた。
「あなたは、そんなものに構う立場じゃないものね」
「その通りだ」
レオナルトは満足そうに頷く。
「俺は王になる男だぞ。雑務に追われる役じゃない」
庭の向こうで、水音が静かに揺れた。
王宮で何が滞っていようと、この別荘には、何の影響もないかのように。
※
王宮の奥、夜会用の広間。
だがその夜、そこは本来の用途をすっかり忘れた場所になっていた。
燭台は必要以上に灯され、香は甘く、酒の匂いが濃い。
演奏台では、即興めいた音楽が鳴らされているが、調和も節度もなく、ただ音が重なっているだけだ。
「ねえ、もっと近くに来なさいな」
高らかな笑い声。
第一王女セラフィーナは、天鵞絨の長椅子に深く身を預け、左右に若い男たちを侍らせていた。
一人は肩を揉み、一人は杯を差し出し、一人は囁くように耳元で何かを告げている。
誰が正式な相手というわけでもない。
「そんな堅い顔しないで。夜は楽しまないと損よ?」
集められているのは、あまり良い噂の立たない若い貴族たちだった。
夜遊びが激しい者。
賭け事で問題を起こした者。
親に叱られ、半ば厄介払いのように送り込まれた者。
だが、セラフィーナにとっては都合がいい。
口が軽く、節度を知らず、そして――王女の名の前では逆らえない。
「姫様、次はどの酒を?」
「それ、甘すぎるわ。こっち」
杯を受け取る指先は慣れきっていて、そこに、王女としての礼節はない。
その様子を、広間の入口で立ち尽くしていた文官が見ていた。
「殿下、失礼いたします。こちらの件ですが――」
声をかけた瞬間、セラフィーナの視線が鋭く飛ぶ。
「……無粋ね」
一言で、切り捨てた。
「今は、そういう話をする場じゃないの」
文官が言葉を続けようとすると、彼女は扇子を軽く振る。
「入らないでちょうだい。雰囲気が壊れるわ」
周囲の若者たちが、くすくすと笑う。
その笑いは、王宮にあるべき緊張感とは無縁のものだった。
文官は、それ以上踏み込めなかった。
――踏み込めば、「空気を読めない」「場を壊す」と言われる。
そしてその場を“仕切っていた”のが、第一王女本人なのだから。
「さ、音楽を続けて」
セラフィーナは満足そうに微笑み、再び長椅子に身を沈めた。
その夜、王宮のどこかで滞った書類や、返されなかった返答のことを、彼女が思い出すことはなかった。
※
その日の夕刻。
外交局では、小さな事故が起きていた。
外国使節の宿泊部屋が、別の国の使節と重複して手配されていたのだ。
「……前回は、こういう時どうしてた?」
「確か、第三王女殿下が……部屋割りを変えて、食事時間もずらして……」
「……今は?」
誰も答えられない。
結果、使節同士が顔を合わせ、不機嫌なまま晩餐に臨むことになった。
小さな溝。だが、外交では致命的だ。
※
さらに別の部署では。
地方貴族からの税猶予申請が、期限切れとして一斉に却下された。
本来なら、「猶予の代替案」が提示されるはずだった。
それを考えていたのは――
もう、いない。
数日後。
抗議の書簡が、王宮に山のように届き始める。
「……おかしい」
年配の文官が、ぽつりと呟いた。
「以前は、こんなことには……」
彼は、引き継ぎ書の表紙を見つめる。
〈第三王女エルフリーデ〉
――ああ。
ようやく、気づいた。
外交。
社交の裏調整。
領地間の利害整理。
帳簿と予算の辻褄合わせ。
それらを、
一人で、誰にも気づかれないまま、回していた人間が消えたのだと。
王宮は、まだ立っている。
だが――
確実に、歯車は噛み合わなくなり始めていた。
そしてその事実に、
王子も、王女も、まだ気づいていない。




