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幕間 雑務姫の居なくなった王宮

王宮の執務棟は、奇妙な静けさに包まれていた。


人がいないわけではない。

むしろ、文官の数は以前と変わらない。


それでも――

書類が、動いていなかった。


机の上には、封を切られたままの外交文書。

返答期限を赤字で囲まれた嘆願書。

数字が合わないまま放置された帳簿。


どれも「誰かが次に処理するはずだった」ものだ。


「……第三王女殿下の引き継ぎ、ここにあるはずだが」


年配の文官が、分厚い束を抱えたまま呟く。


確かにある。驚くほど丁寧な引き継ぎ書が。


案件の背景、関係者の利害、注意すべき事項、今後の選択肢。


――だが。


「……長いな」


若い文官が、途中で頁を閉じた。


「判断が要る部分ばかりだ。これは……殿下の決裁が前提だな」


その“殿下”は、今どこにいるのか。



第一王子レオナルトは、王都郊外の別邸にいた。


豪奢な別荘だった。


白い石で組まれた回廊は庭へと開かれ、大きく開いた扉の向こうには、陽光を弾く水盤と、南国の花々が揺れている。


風に乗って、甘い果実酒の香りと、ゆるやかな音楽が流れ込んでいた。


第一王子レオナルトは、長椅子にだらしなく身を預けている。

上衣は脱ぎ捨てられ、日に焼けた肌がそのまま晒されていた。


薄絹一枚のドレスは、格式ある宮廷の場には到底ふさわしくない仕立てで、身体の線を誇示するように張り付き、肩口から背にかけて、無遠慮な素肌を晒している。


その姿は、とても他国の王女とは思えないものだった。


彼女は杯を一つ手に取り、それをレオナルトの唇へと運んだ。


「ねえ、レオ」


囁くような声。


「さっき、また文官が来てたわよ」


レオナルトは、気だるげに笑い、酒を受け取る。


「放っておけ」


杯を傾けながら、もう片方の手でミレーネの腰を引き寄せた。


「どうせ急ぎじゃない。

 前はさ、気づいたら全部終わってたじゃないか」


机の上には、未開封の書類が数束。

だが、誰の視線もそこへ向くことはない。


ミレーネはくすりと笑い、彼の肩に頬を寄せた。


「あなたは、そんなものに構う立場じゃないものね」


「その通りだ」


レオナルトは満足そうに頷く。


「俺は王になる男だぞ。雑務に追われる役じゃない」


庭の向こうで、水音が静かに揺れた。


王宮で何が滞っていようと、この別荘には、何の影響もないかのように。



王宮の奥、夜会用の広間。


だがその夜、そこは本来の用途をすっかり忘れた場所になっていた。


燭台は必要以上に灯され、香は甘く、酒の匂いが濃い。


演奏台では、即興めいた音楽が鳴らされているが、調和も節度もなく、ただ音が重なっているだけだ。


「ねえ、もっと近くに来なさいな」


高らかな笑い声。


第一王女セラフィーナは、天鵞絨の長椅子に深く身を預け、左右に若い男たちを侍らせていた。


一人は肩を揉み、一人は杯を差し出し、一人は囁くように耳元で何かを告げている。


誰が正式な相手というわけでもない。


「そんな堅い顔しないで。夜は楽しまないと損よ?」


集められているのは、あまり良い噂の立たない若い貴族たちだった。


夜遊びが激しい者。

賭け事で問題を起こした者。

親に叱られ、半ば厄介払いのように送り込まれた者。


だが、セラフィーナにとっては都合がいい。


口が軽く、節度を知らず、そして――王女の名の前では逆らえない。


「姫様、次はどの酒を?」


「それ、甘すぎるわ。こっち」


杯を受け取る指先は慣れきっていて、そこに、王女としての礼節はない。


その様子を、広間の入口で立ち尽くしていた文官が見ていた。


「殿下、失礼いたします。こちらの件ですが――」


声をかけた瞬間、セラフィーナの視線が鋭く飛ぶ。


「……無粋ね」


一言で、切り捨てた。


「今は、そういう話をする場じゃないの」


文官が言葉を続けようとすると、彼女は扇子を軽く振る。


「入らないでちょうだい。雰囲気が壊れるわ」


周囲の若者たちが、くすくすと笑う。


その笑いは、王宮にあるべき緊張感とは無縁のものだった。


文官は、それ以上踏み込めなかった。


――踏み込めば、「空気を読めない」「場を壊す」と言われる。


そしてその場を“仕切っていた”のが、第一王女本人なのだから。


「さ、音楽を続けて」


セラフィーナは満足そうに微笑み、再び長椅子に身を沈めた。


その夜、王宮のどこかで滞った書類や、返されなかった返答のことを、彼女が思い出すことはなかった。



その日の夕刻。


外交局では、小さな事故が起きていた。


外国使節の宿泊部屋が、別の国の使節と重複して手配されていたのだ。


「……前回は、こういう時どうしてた?」


「確か、第三王女殿下が……部屋割りを変えて、食事時間もずらして……」


「……今は?」


誰も答えられない。


結果、使節同士が顔を合わせ、不機嫌なまま晩餐に臨むことになった。


小さな溝。だが、外交では致命的だ。



さらに別の部署では。


地方貴族からの税猶予申請が、期限切れとして一斉に却下された。


本来なら、「猶予の代替案」が提示されるはずだった。


それを考えていたのは――

もう、いない。


数日後。


抗議の書簡が、王宮に山のように届き始める。


「……おかしい」


年配の文官が、ぽつりと呟いた。


「以前は、こんなことには……」


彼は、引き継ぎ書の表紙を見つめる。


〈第三王女エルフリーデ〉


――ああ。


ようやく、気づいた。


外交。

社交の裏調整。

領地間の利害整理。

帳簿と予算の辻褄合わせ。


それらを、

一人で、誰にも気づかれないまま、回していた人間が消えたのだと。


王宮は、まだ立っている。


だが――

確実に、歯車は噛み合わなくなり始めていた。


そしてその事実に、

王子も、王女も、まだ気づいていない。


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