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境界

夜。


船は、一定の速度で進んでいた。


揺れは少ない。

機関音も、抑えられている。

まるで、急ぐ理由など最初から存在しないかのように。


エルフリーデは、船室の窓際に立っていた。


厚いガラスの向こうに、海がある。

暗く、広く、静かだ。


その中に――

一つだけ、はっきりと見えるものがあった。


光。


海面に浮かぶ、規則正しい明滅。

一定の間隔で、白く瞬く灯り。


(……境界標)


連邦領海の外縁を示す、航行用の灯標だ。

商務調整局に勤める者なら、嫌というほど見慣れている。


あれを越えれば、航路は「外」になる。


(……まだ)


(まだ、越えていない)


灯標は、遠い。

だが、確実に、近づいてきている。


エルフリーデは、無意識に息を詰めた。


(……来るなら)


(……今)


頭に浮かぶ顔は、一つだけだった。


ルーカス。


この時間なら、もう異常には気づいている。

港湾管理の履歴。

船籍。

航路申請。


彼なら、見落とさない。


(……間に合う)


(……きっと)


船は、淡々と進む。


灯標が、少し大きくなる。

光の輪郭が、はっきりしてくる。


甲板に出れば、直接見える距離だ。

だが、出る理由は与えられていない。


船室の扉は、閉じられていない。

鍵も、かかっていない。


――逃げる想定が、最初からない。


それでも。


エルフリーデの胸は、わずかに高鳴っていた。


(……まだ、線の内側)


(……まだ、連邦)


この船が止まる理由はない。

だが、止める人が来る可能性は――


遠くで、何か音がした。


一瞬、心臓が跳ねる。


(……来た?)


だが、それはただの波音だった。

船体が、水を切る音。


灯標が、さらに近づく。


光が、目に刺さるほどになる。


来ない。


誰も、来ない。


船内は、変わらず静かだ。

案内役も、護衛も、何も言わない。


ただ、時間だけが進む。


(……あ)


その時、気づいた。


灯標が、横にずれていく。


正面からではない。

船は、すでに――


(……回り込んでる)


進路を微調整している。

境界を「跨ぐ」のではなく、

「なぞる」ように越えるための角度。


偶然ではない。

慣れた操船だ。


(……準備されてた)


喉が、ひくりと鳴る。


灯標が、視界の端へ流れる。


光が、真横に並ぶ。


その一瞬。


エルフリーデは、はっきりと理解した。


(……今だ)


(……ここ)


(……ここを越えたら)


息を止める。


何かが起きるなら、今しかない。


だが――


何も、起きない。


警告音もない。

制止もない。

呼び止める声すらない。


船は、何事もなかったかのように進む。


灯標が、背後へ流れていく。


光が、小さくなっていく。


遠ざかる。


(……ああ)


胸の奥で、静かに、何かが落ちた。


(……越えた)


連邦領海を。


戻れる場所を。


守られていた線を。


エルフリーデは、ゆっくりと息を吐いた。


苦しくはない。

涙も出ない。


厚いガラス越しに見える海は、暗い。

月明かりを反射する波が、ゆっくりと後方へ流れていく。


――流れているのは、船だ。

だが、感覚は逆だった。


(……離れていく)


連邦の港。

街の灯り。

あの場所。


静かに、確実に、遠ざかっている。


船内は、異様なほど整っていた。

揺れは少なく、人の気配はあるが、近づいてはこない。


「配慮」だ。


騒がせない。

怯えさせない。

逃げる理由を、与えない。


(……上手ね)


心の中で、そう呟く。


これまで何人、同じように運ばれてきたのだろう。

本人が「連れ去られた」と認識する前に、すべてが終わるように。


机の上には、先ほどまで見ていた書類が揃えられている。

追放の原本。

照合記録。

そして――移送記録。


すべてが、正しい形式で並んでいる。


(……だから)


(誰も、罪悪感を持たない)


これは誘拐じゃない。

連れ戻し。

確認。

保護。


誰にとっても、そういう建て付けだ。


エルフリーデは、椅子に腰を下ろした。


身体は、まだ平静だった。

震えてもいない。

涙も出ない。


ただ、胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく。


(……間に合わなかった)


理由も、顔も、はっきり浮かぶ。


ルーカス。


朝の別れ際の声。

「最大限、警戒して」


その言葉を思い出して、唇を噛む。


(……ごめんなさい)


謝罪は、今さらだ。


彼は、分かっていた。

罠だと。

だから止めた。


それでも、自分は行った。


公爵家を守るため。

連邦に泥をつけないため。

“正しい選択”だと信じたから。


(……正しかった、はず)


でも。


窓の外を、もう一度見る。


今、この船が沈んでも、

連邦は「事故」としか扱えない。


自分は、もう――

連邦の人間ではない。


「……」


声が、喉の奥で止まる。


泣こうとしているわけじゃない。

叫びたいわけでもない。


ただ。


(……帰れない)


その事実が、

静かに、残酷に、理解できてしまった。


エルフリーデは、膝の上で手を組んだ。

指先に、力が入る。


(……私)


(これから、どうなるの)


王宮に戻される。

王女として扱われる。

いや――


“使われる”。


兄と姉。

侍女。

文官。


彼らの顔が、ぼんやり浮かぶ。

向けられる言葉も、想像できる。


逃げた女。

戻ってきた女。

都合のいい駒。


(……仕事、山ほどあるわね)


思わず、そんなことを考えてしまう自分に、小さく、苦笑する。


逃げ場はない。

助けも、今は来ない。


(……ルーカス)


名前を呼んで、胸が締めつけられる。


彼は、きっと来る。

来る人だ。


でも。


(……今じゃない)


今、この瞬間には、間に合わなかった。


それだけだ。


船が、わずかに進路を変える。

機関の音が、低く響く。


エルフリーデは、目を閉じた。


涙は、出なかった。


代わりに、心の奥で、静かな絶望が、ゆっくりと根を張る。


――連邦の灯りは、もう見えない。


それでも、彼女は背筋を伸ばした。


ここから先も、逃げない。


それが、自分で選んだ道だから。


たとえそれが、一番、苦しい場所へ続いているとしても。

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― 新着の感想 ―
なにが愕然としたかって、これだけ露骨に見え透いた、舌舐めずりしてるケダモノの大口の中にノコノコ乗り込んだのが、罠を罠として事前に見抜いた上で敢えて利用するつもりとかそんなんじゃなく、備えも対策も連携も…
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