戻れない
桟橋の先で、足が止まった。
船は、すぐそこにあった。
舷側に掲げられた紋章は控えめで、誇示するでもなく、隠すでもない。
王宮の船。
――間違いない。
(……原本の確認、だったわね)
自分でそう言い聞かせるように、エルフリーデは息を整える。
まだ、理屈の上では“照会の途中”だ。
「どうぞ」
案内役の男が、何気ない仕草で舷門を示した。
板が渡されている。
幅は十分。手すりもある。
危険なところは、何一つない。
だからこそ――
「……こちらで、原本を?」
エルフリーデは、確認するように尋ねた。
男は、すぐに頷く。
「ええ。船内の保管庫にございます」
自然な答え。
不自然さがないことが、不自然だった。
「港の施設では?」
「王宮の文書ですから」
一言で、終わる。
それ以上の説明は不要だと、そう言わんばかりに。
エルフリーデは、視線を巡らせた。
連邦の職員はいない。
港湾管理の人影も、遠い。
聞こえるのは、水音と、帆布が風を受ける音だけ。
(……ここから先)
(“確認”は、誰の管理下になる)
答えは、分かっている。
ここは、連邦の港だ。
だが、この船は、王宮のもの。
境界線は、すでに足元に引かれていた。
「……確認は、短時間で終わりますか」
最後の、形式的な問い。
案内役は、微笑んだ。
「もちろんです」
即答だった。
「お手を煩わせることは、ありません」
その言葉で、確信が形になる。
(……戻る前提じゃない)
ここで騒げば、照会は破綻する。
拒否すれば、公爵家に疑義が残る。
――それは、最初から分かっていた。
エルフリーデは、背筋を伸ばした。
「分かりました」
声は、揺れていない。
一歩、踏み出す。
板が、わずかに軋む。
その音が、妙に大きく響いた。
次の一歩で、足裏の感触が変わる。
石ではない。木だ。
(……乗った)
その瞬間。
背後で、気配が詰まった。
護衛が、自然に位置を変える。
逃げ道を塞ぐでもなく、囲むでもない。
ただ――
「戻れない配置」になった。
エルフリーデは、振り返らない。
振り返っても、もう意味はないからだ。
船内へと続く扉が、開かれる。
「こちらです」
案内役の声は、相変わらず穏やかだった。
一歩、船内に入る。
空気が、変わる。
港の匂いが、遠ざかる。
その背後で。
――静かに、舷門が閉じられた。
音は、小さい。
だが、それで十分だった。
(……ああ)
胸の奥で、何かがはっきりと落ちる。
(……これは)
(確認じゃない)
(……帰るための移動でもない)
船の奥から、低い声が聞こえた。
「では、原本をご覧いただきましょう」
その言葉に、エルフリーデは足を止めない。
止めれば、それは“拒否”になる。
ただ一つ、はっきりしたことがある。
――王宮は、まだ「踏み越えた」と思っていない。
だからこそ。
この一歩は、取り返しのつかない一歩になる。
エルフリーデは、船内の通路を進んだ。
静かに。
確実に。
――連れ戻されるための、最後の境界線を越えて。




