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歩みを止められない

応接所を出ると、空気が変わった。


建物の中より、わずかに湿り気を含んだ風。

朝の連邦市街に特有の、石と人の匂い。


馬車は、すでに用意されていた。


「こちらです」


王宮側の案内役が、扉を開ける。

声は変わらない。

態度も、変わらない。


だが――

そこに立っている護衛は、先ほどまでと違っていた。


(……あ)


一瞬、胸が鳴る。


制服は同じだ。

色も、装飾も。

だが、立ち方が違う。


距離の取り方。

視線の置き方。

周囲ではなく、自分だけを基準にしている立ち位置。


「護衛は……?」


言いかけて、止める。


代わりに、案内役が自然に答えた。


「ここからは、王宮側で引き継ぎます」


穏やかで、事務的な声音。


「原本は港近くの船に保管しておりますので。

短距離ですし、問題はありません」


――港。


その単語が、耳に残る。


(……船?)


だが、表情には出さない。


「分かりました」


そう答えた自分の声が、少しだけ遠く聞こえた。


馬車が動き出す。


石畳を離れ、舗装の荒い道へ。

窓の外の景色が、徐々に変わっていく。


商店が減り、倉庫が増える。

人の流れが、仕事のそれに変わる。


(……連邦の港、ですね)


何度も来た場所だ。

航路調整で、何度も。


だからこそ。


鼻先をかすめた匂いに、はっきりと気づいた。


――潮。


石と木と油に混じる、海の匂い。


(……近い)


港は、近い。


思った以上に。


馬車が止まる。


扉が開き、外に出た瞬間、

風がはっきりと変わった。


湿った空気。

帆布の匂い。

水音。


「こちらです」


案内役が、何気ない仕草で前を歩く。


視線の先に、停泊中の船が見えた。


王宮の紋章。

控えめだが、隠していない。


(……原本を、船で確認する?)


一歩、遅れて違和感が形を持つ。


書類の原本だ。

重要だが、動かせないほどのものではない。

わざわざ船に置く理由が、ない。


(……おかしい)


護衛の数。

配置。

そして――


公爵家の人間が、いない。


振り返って、確認する。


いない。


最初から、同行していないかのように。


胸の奥が、静かに冷えた。


(……これは)


(……面会じゃない)


歩きながら、頭の中で整理する。


照会。

確認。

原本。


すべては、ここまで“正当”だった。


だが――

この場所だけが、違う。


ここは、連邦の港。

だが、この船は、王宮のもの。


(……境界線の外)


その事実に気づいた瞬間。


足が、止まりかける。


「……エルフリーデ様?」


案内役が、振り返る。


表情は穏やかだ。

何も知らない顔。


「すぐ、終わります」


そう言って、船を指し示す。


「確認だけですから」


その言葉が、はっきりと耳に残った。


(……“だけ”)


エルフリーデは、一度、深く息を吸った。


ここで騒げば、照会を拒否したことになる。

逃げれば、公爵家に疑義が残る。


だから――


「……分かりました」


そう言って、歩き出す。


だが、心の中では、

すでに結論が出ていた。


(これは、帰るための移動じゃない)


桟橋を踏む。


木が、わずかに軋む。


船に近づくにつれて、

連邦の街の音が、遠ざかっていく。


背後で、音もなく護衛が位置を詰めた。


その距離が、

もう“護衛”の距離ではないことを――


エルフリーデは、はっきりと理解した。


(……誘導されている)


(……いいえ)


(……連れ出される)


その認識が、

胸の奥で、静かに固まった。


それでも、歩みは止めない。


止められない。


今はまだ、

「確認」の途中なのだから。


――王宮が、そう信じている限りは。

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― 新着の感想 ―
原本は国外に持ち出せないので我が国まで確認に来てほしいっていうなら、従う理由にはならないけど理屈は通る。でも船に積んで運んできてる時点でそうじゃない。 じゃあ「確認はしますから、書類をここまで持って…
ここまで分からないとは、これで今まで優秀と認められていたとは、とても思われない判断力ですね。
しかしこのような強引な手法で連れ去ったとしてエルフリーデが以前のように国の雑務をすると王宮の人間は本気で信じているんでしょうかね。そうだとしたら相当おめでたい人たちですよね。
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