不正
連合商務調整局本部は、まだ完全には目を覚ましていなかった。
早朝の廊下は、人影も少なく、掃除の終わった床がやけに冷たく光っている。
朝の静けさ――というより、嵐の前の間、と言った方が近い。
統括官室の扉が開く。
ルーカスは、いつも通りの時間に出勤していた。
外套は整えられ、書類鞄は軽い。
今日の予定は、頭の中で何度も確認している。
(……面会は、午前十時)
同行はできない。
それは昨夜、すでに腹を括った。
あとは――
何も起きないことを、祈るだけだった。
その時。
「失礼いたします、統括官」
廊下に、不自然に揃った足音。
振り向くと、見慣れない制服が三人。
監査局。
一瞬で、理解した。
(……来たか)
一人が一歩前に出る。
年齢は若く、表情は硬いが敵意はない。
むしろ、少し緊張している。
「急なことで申し訳ありません。本日、確認をお願いしたい案件がありまして」
「……確認?」
ルーカスは声の調子を変えない。
立ち止まりもしない。
ただ、相手を正面から見た。
「はい。統括官名義の決裁ログについて、一部、照合が必要な箇所が見つかりました」
差し出される書類。
封印。
日付。
決裁番号。
(……ほう)
受け取る前から、分かる。
(これ、今日だな)
書類を受け取り、目を落とす。
――数秒。
それだけで、十分だった。
(……偽造)
完全ではない。
だが、致命的でもない。
署名の角度。
筆圧。
癖。
再現度は高い。
だが、「本人ではない」と断定するには弱すぎる。
(上手いな)
拒否すれば、「確認を拒んだ」という記録が残る。
応じれば、時間を奪われる。
「確認は、どれくらいかかる?」
「数時間です」
即答。
「本日中には終わります」
――本日中。
ルーカスの脳裏に、面会の時刻が浮かぶ。
(……見事に、今日だけだ)
偶然を装っているが、偶然ではない。
しかし、証明はできない。
監査官が、少し気まずそうに続ける。
「ご安心ください。統括官を疑っているわけではありません」
「形式上の確認です」
(だから、タチが悪い)
善意。
職務。
正当性。
全部、揃っている。
ルーカスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
それ以上、言わない。
その場で怒鳴るのは簡単だ。
だが、それは自分の首を絞める。
「部屋を使わせてくれ」
「はい、こちらへ」
案内されるのは、監査用の簡素な会議室。
窓はあるが、外は見えない位置。
扉が閉まる。
静かだ。
(……エルフリーデ)
頭に浮かぶ名前を、強引に押し込める。
今ここで動けない理由は、十分すぎるほどある。
制度的にも、記録的にも、完全に。
(だからこそ)
机に置かれた書類を、もう一度見る。
(……分かってた)
(分かってたから、止めたかった)
だが、止めれば彼女の選択を否定する。
――それもまた、できなかった。
監査官がペンを持つ。
「では、確認を始めさせていただきます」
ルーカスは、静かに頷いた。
「どうぞ」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
だが、内側では。
(……間に合わなかったら)
その可能性を、初めて“現実のもの”として意識する。
机の下で、指がわずかに強張る。
(……クソ)
だが、それでも。
今は、統括官として。
制度の内側にいる者として。
彼は、席を立たなかった。
――この朝が、
“ただの確認”で終わらないことを、
誰よりも分かっていながら。




