歯がゆい思い
夕方。
連合商務調整局本部の廊下は、昼の喧騒が引いた頃合いだった。
書類の束を抱えた職員は減り、足音だけがやけに響く。
窓の外は、薄く橙に染まり始めている。
一日の終わりが近い合図だ。
エルフリーデは、自分の机へ戻る途中で、足を止めた。
――統括官室の前。
扉の向こうに、まだ灯りがある。
(……まだ、お仕事でしょうか)
一瞬迷う。
だが、迷っている時間はない。
封書を持ち直し、扉を叩いた。
「……失礼します」
「どうぞ」
返ってきた声は、いつも通り穏やかだった。
けれど、どこか疲労の影が薄い。
疲れていないわけではない。ただ、隠すのが上手いだけだ。
扉を開けると、ルーカスは机に向かっていた。
書類は整然と積まれ、ペンは定位置。
彼の部屋はいつも“乱れない”。
「終業前に、少し……よろしいですか」
「うん。大丈夫」
顔を上げた時の目が、こちらをきちんと捉える。
逃がさない視線ではない。確認する視線。
それが、今日は少しだけ怖い。
エルフリーデは一歩進み、机の端に封書を置いた。
封蝋はすでに切ってある。だが、相手に見せるべきは外ではなく中身だ。
「シュトラール公爵家から、至急扱いで届きました」
「……公爵家から?」
ルーカスの声が、ほんのわずかに低くなる。
その瞬間、空気が変わった。
彼は封書を手に取らない。
まず、エルフリーデを見る。
「内容は?」
「王宮から、公爵家へ“照会文書”が届いたそうです」
言った瞬間、ルーカスの目の奥が静かに冷えた。
(……反応が早い)
彼は、驚かない。
怒りも見せない。
ただ、理解する速度だけが異様に早い。
「照会……」
呟きは、噛み砕くような音を伴っていた。
エルフリーデは、添え状と照会文書を分けて差し出した。
先に添え状。次に、王宮の文書。
「こちらが、王宮の文面です」
ルーカスは受け取り、目を落とす。
紙が擦れる音が、部屋にやけに大きく響いた。
――数秒。
それだけで十分だった。
ルーカスの表情が変わる。
怒りではない。
困惑でもない。
“嫌悪”に近いものが、薄く差した。
「……瑕疵、か」
低い声。
「返還要求ではなく、本人確認を含む事実照会……」
読み上げる口調は淡々としている。
けれど、その淡々さが逆に、危険を示していた。
「綺麗すぎるね」
「……はい」
エルフリーデは、頷くしかなかった。
「殴ってこない。脅してこない。なのに、無視できない形で来る」
視線が、文面の言葉をなぞる。
「“制度”を盾にする時の書き方だ」
机の上に紙を置く手つきが、静かに強い。
「誰が書かせたんだろうね」
問いかけの形なのに、答えを求めていない。
彼はもう、半分以上を分かっている。
エルフリーデは、息を整えた。
「……私が、この件で面会に応じるかどうか。判断を、私に委ねると」
そう言って、公爵家の添え状を指先で押さえる。
「書かれていました」
ルーカスは、添え状にも目を落とす。
そこで、微かに口元が緩んだ。
笑みではない。
“理解した”という表情だ。
「……公爵らしい」
そして、顔を上げる。
「君はどうする」
問いは短い。
だが、視線が重い。
エルフリーデは、一拍置いた。
迷いを見せるためではない。
言葉を“正確に”するためだ。
「……私が行きます」
口にした瞬間、自分でも分かる。
この部屋の温度が一段下がった。
ルーカスは、動かない。
瞬きもしない。
その静止が、怒鳴るより怖い。
「理由は?」
「放置すれば“不正養子縁組”の疑いを立てられます」
淡々と答える。
これは感情ではなく、事務の話だ。
「公爵家が応じなければ、“隠した”という記録だけが残る」
「……だから?」
「これは、私の処分に由来する問題です」
言葉を置く。
「家の名で押し返すより、私が行って、必要な回答をする方が早い」
ルーカスの眉が、ほんのわずかに動いた。
嫌な予感が、確信に変わる時の動きだ。
「君は……守られている立場だって自覚してる?」
「はい」
即答。
「だからこそ、家を盾にしたくありません」
その一言が、部屋に落ちる。
ルーカスは、椅子の背に軽く体重を預けた。
視線は逸らさないまま。
「……君は、いつもそうだね」
声音は穏やかだ。
だが、その奥に――何かが滲む。
「正しい判断を、躊躇なく選ぶ」
褒め言葉にも聞こえる。
けれど、どこか、責めるようでもあった。
エルフリーデは、拳を握った。
怖いからではない。
揺らがないためだ。
「……行かないという選択は、公爵家に泥が残ります」
「残さない方法もある」
ルーカスが言う。
「回答は書面でいい。面会を求められても、形式を理由に引き延ばせる」
「それは、“逃げている”と記録されます」
「記録されても、君が無事ならいい」
その瞬間。
エルフリーデの胸が、僅かに鳴った。
(……今)
(“無事ならいい”って)
言葉の選び方が、仕事のそれではない。
だが、そこに引っかかっている場合ではない。
「……私は、無事で戻ります」
静かに、言う。
「照会です。面会ではありません。確認で終わります」
ルーカスは、ふっと息を吐いた。
「僕は、同行できない。制度的に、僕が同席した瞬間に“外交案件”になる」
エルフリーデは、唇を噛む。
「……利益相反、ですか」
「そう」
頷く。
「統括官が同席すると、連邦が王宮と交渉した記録になる。相手の思う壺だ」
淡々と説明する。
その説明の丁寧さが、逆に怖い。
彼は――本当は行きたい。
それを理性で押し殺してる。
ルーカスは、机の上の文書から視線を外した。
一度だけ、目を閉じる。
考えるためではない。
感情を切り離すための、短い動作だった。
「……分かった」
その声は、驚くほど静かだった。
反対もしない。
説得もしない。
それが、逆に重い。
「君が行くなら」
視線が戻る。
今度は、完全に“統括官”の目だ。
「……最大限、警戒して」
本当は、それだけでは足りない。
止めろ、と言いたい。
行くな、と命じたい。
だが、それは――彼女の選択を奪う言葉だった。
命令ではない。
忠告でもない。
“願い”に近い声音だった。
「必ず、戻ります」
エルフリーデは、はっきりと言う。
「公爵家にも、ここにも、迷惑はかけません」
ルーカスの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
「……迷惑かけていい場面も、あるんだけどね」
小さな独り言のように。
だが、それ以上は言わない。
椅子から立ち上がる。
見送るための動作だ。
「行って」
短い言葉。
「何かあったら、即座に連絡を」
「はい」
エルフリーデは、一礼した。
扉へ向かい、手を掛ける。
そこで、一瞬だけ、迷う。
振り返ると、ルーカスはまだ立っていた。
腕を組み、こちらを見ている。
仕事の顔だ。
だが、その奥にあるものを、今は見てしまう。
「……ルーカス様」
「なに?」
「ありがとうございます」
理由は言わない。
それでも、十分だ。
彼は、一拍置いてから、頷いた。
「当然だよ」
その言葉が、ひどく重かった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
ルーカスは、しばらくその場から動かなかった。
(……分かってる)
(これは、ただの照会じゃない)
(だから、止めたかった)
でも。
(止めたら、彼女の選択を否定する)
机に、手をつく。
「……クソ」
小さく、吐き捨てる。
制度。
記録。
正当性。
全部、正しい。
それでも。
(……間に合わなかったら)
その考えを、強引に打ち消す。
今は、まだ“起きていない”。
起きていないことに、先回りして動くわけにはいかない。
――それが、彼の立場だ。
だが。
(……もし)
もし、これが罠なら。
その時は。
ルーカスの目が、静かに細くなる。
(制度も、記録も、全部後回しだ)
その感情を、再び押し殺す。
今は、統括官として。
見送る側として。
彼は、ただ、静かに次の一手を待った。
――嫌な予感を、確信に変えないために。




