迷惑はかけられない
朝。
連合商務調整局の職員用宿舎は、いつもと変わらない時間に動いていた。
廊下を行き交う足音、階下から聞こえる食堂の気配、窓の外を通る馬車の音。
エルフリーデは、机の上に広げた書類に目を通しながら、今日の予定を頭の中で整理していた。
午前中は航路調整の確認、午後は書面対応が二件。
どれも急ぎではないが、後回しにできるものでもない。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「……はい」
応じると、宿舎管理係の職員が封書を差し出す。
「シュトラール公爵家からです。至急扱いで」
その言葉に、指先がわずかに止まった。
「ありがとうございます」
受け取り、扉を閉める。
封書は二通分の厚みがあった。
(……二通?)
机に置き、封蝋を確かめる。
一つは、確かにシュトラール公爵家のもの。
もう一つは――
(……王宮)
胸の奥が、静かに沈んだ。
椅子に腰を下ろし、まず公爵家の封を切る。
中に入っていたのは、短い添え状だった。
本書類は、王宮より当家へ届いた照会文書である。
内容は返還要求ではなく、あくまで事実確認のみ。
ただし、放置することは望ましくない。
対応するか否か、どのように応じるか――
判断は、君自身に委ねる。
当家は、いずれの選択であっても、その責を負う。
簡潔で、感情の滲まない文章。
だが、その一行一行に、はっきりとした意思があった。
(……行け、とも)
(行くな、とも、書いていない)
ただ、事実を示し、判断を預けている。
それが、シュトラール公爵家のやり方だ。
一度、深く息を吸ってから、二通目――王宮の文書を開く。
文面は、驚くほど丁寧だった。
貴家養子エルフリーデ・フォン・シュトラール氏について、
旧王国籍処理に関する決裁文書の一部に記録上の齟齬の可能性が確認されたため、
本人確認を含む事実照会を行いたく存じます。
返還要求ではない。
呼び戻しでもない。
ただの「照会」。
だからこそ、無視できない。
(……“瑕疵”)
その言葉を、頭の中で反芻する。
制度の隙間に疑念を滑り込ませる時、必ず使われる単語だ。
文書を閉じ、机の上に並べる。
王宮の照会文書。
公爵家の添え状。
二つを見比べながら、エルフリーデはしばらく動かなかった。
(……公爵家に、判断を押し付ける形には、したくない)
家の名で突っぱねれば、
「連邦が王宮の照会を拒否した」という記録が残る。
無視すれば、
「不正養子縁組を隠した」という疑いが立つ。
どちらも、公爵家に泥を被せる選択だ。
(……それは、できない)
拳を、ぎゅっと握る。
これは、自分の過去の問題だ。
自分が王宮にいた頃の、決裁と、処分の、その延長線。
だから。
(……私が、行くべきだわ)
怖くないわけではない。
王宮と再び向き合うことが、楽なはずもない。
けれど。
(逃げない)
公爵家に迎えられた時。
自分で、この場所に立つと選んだ時。
その延長にある判断だ。
エルフリーデは、二通の文書を丁寧に揃えた。
添え状を上に重ねる。
「……お任せします、なんて」
小さく、苦笑する。
(本当に、信用されている)
その重さを、無視するわけにはいかなかった。
窓の外では、連邦の街がいつも通り動いている。
穏やかで、忙しくて、変わらない日常。
(……戻ってきます)
心の中で、そう約束する。
これは返還ではない。
照会だ。
確認だ。
――ならば、
答えるのは、当事者の役目だ。
エルフリーデは、自分の名が書かれた文書を手に取った。
その重みが、
これから何を引き寄せるかも知らないまま。




