公爵家に届いた手紙
朝。
シュトラール公爵家の執務棟は、いつもより静かだった。
使用人たちの足音は控えめで、廊下に漂う空気も、どこか張り詰めている。
まるで、屋敷全体が一段深く息を潜めているようだった。
その中心にある執務室で、公爵は一通の文書を前に、しばらく黙っていた。
封蝋は、見慣れたものだ。
王宮の紋章。
だが、使節団の時のような、過剰な誇示はない。
あくまで――事務的。
「……“照会”か」
低く呟く。
公爵は、ゆっくりと文面に目を走らせる。
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貴家養子エルフリーデ・フォン・シュトラール氏について、
旧王国籍処理に関する決裁文書の一部に記録上の齟齬の可能性が確認されたため、
本人確認を含む事実照会を行いたい。
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丁寧な言葉だ。
角の立たない書式。
威圧も、要求も、感情もない。
だからこそ、厄介だった。
「……瑕疵、か」
紙を置き、指先で机を軽く叩く。
「“誤りがあった可能性”という言い回しだが、実質は」
「はい」
側近が頷く。
「放置すれば、“不正な養子縁組”の疑義を立てられます」
公爵は、鼻で小さく息を吐いた。
「返還を求めていない。だが、こちらが応じなければ“問題を隠している”と記録できる」
完璧な書き方だった。
強硬でもない。
違法でもない。
ただ、“黙ってはいられない”位置に、きっちり置いてくる。
「……王宮が直接、連邦に圧をかけた記録は、残したくない」
そう言って、公爵は天井を見上げた。
今、ここで強く反発すればどうなるか。
「連邦が王宮の照会を拒否した」という形で、記録に残る。
それは、相手の思う壺だ。
「しかし、無視もできん」
「はい」
側近の声も、重い。
「応じなければ、“本人確認を拒否した”という事実だけが残ります」
沈黙が落ちる。
窓の外では、庭師がいつも通り作業をしている。
何も知らない顔で。
公爵は、しばらく考え込んでから、低く言った。
「……本人に、伝えよう」
「ご本人を、出されますか?」
「確認だ」
即答だった。
「これは、彼女の過去に由来する件だ。家の名前で押し返せば、かえって火種になる。それに」
声が、わずかに柔らぐ。
「彼女は、逃げない」
側近は、その言葉に反論しなかった。
むしろ、それが一番の懸念でもあり、信頼でもあった。
「……連絡は、どのように」
「事実だけを伝えろ」
公爵は、文書を閉じる。
「“返還要求ではない” “照会のみ” “だが、放置できない”と」
そして、静かに付け加えた。
「選択は、彼女に委ねる」
それが、シュトラール家のやり方だった。
守る。
だが、囲わない。
その結果が、どこへ繋がるか――
この時点では、誰も口にしなかった。
机の上に残された照会文書だけが、
静かに次の一手を待っていた。




