表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/76

雑務王女の一日

はじめまして、連載は初めてですが頑張ります

第三王女エルフリーデは、王国の実務の大半を、一人で処理していた。


それを、王宮で知っている者はほとんどいない。


ぱきり。


乾いた音が、静まり返った執務室に小さく響いた。


「……っ」


エルフリーデは思わず息を詰め、ペンを取り落とした。

インク壺の縁に当たって、かすかな音を立てて転がる。


右手の指先に、鈍い痛みが走る。


見るまでもなく分かった。

手入れも満足にできず、栄養も足りていない爪が、長時間の筆記に耐えきれず縦に割れている。

ひびの奥から、じわりと血が滲んでいた。


「……いけない。」


小さく呟き、エルフリーデは急いでハンカチを引き寄せる。

今しがた書いていたのは、第一王女が主催するお茶会の招待状だ。

白い上質紙に血が落ちれば、書き直しになる。


指に押し当てたハンカチは、何度も洗われて繊維が硬くなっていた。

吸水性は乏しく、むしろ傷口を擦って痛みを強める。


それでも、替えはない。


ぎゅっと指を押さえ、血が止まるのを待ちながら、エルフリーデは机の上へ視線を走らせた。


招待状の束の横には、まだ手を付けきれていない書類が山のように積まれている。


隣国使節から届いた返書の草案。

言い回しが必要以上に強く、このまま送れば余計な反発を招きかねない。

語調を和らげ、含みを持たせる修正が必要だ。


地方領主からの嘆願書もある。

税の猶予、治水工事の延期、兵の派遣要請――

内容はばらばらだが、どれも放置すれば確実に火種になる案件ばかりだった。


さらに、翌日の会議用資料。

各部署から上がってきた報告を整理し、争点と優先順位を洗い出したまとめだ。


どれも、本来であれば外交官や担当文官、あるいは王子や王女自身が目を通すべき書類である。


それが今、すべて彼女の机の上に積まれていた。


時刻は、すでに深夜を回っている。


だが、この部屋にお茶を運んでくるメイドはいない。

手伝いに入る文官もいない。


そもそも、この机に積まれている書類の大半は、

第三王女であるエルフリーデが抱えるべきものではなかった。


それでも。


エルフリーデは小さく一度、息を吐くだけで、血の滲む指にハンカチを巻きつけ、再びペンを取った。


地方領主からの嘆願書を一通、引き寄せる。


要点を抜き出し、過去の対応例を思い出しながら、余白に簡潔な指示を書き込んでいく。

強すぎず、弱すぎず。

相手の顔を立てつつ、王宮として譲れない線は越えさせない。


――署名欄だけは、空けたままにする。


ここに記されるのは、第一王子の名だ。


指示を書き、調整案をまとめ、責任だけは兄の署名に委ねる。

それは、今に始まったことではない。


「……次」


淡々と呟き、次の書類へ。


結局、眠れたのは、窓の外がうっすらと白み始めた頃だった。


急ぎの案件だけは、どうにか片付いている。

それで十分だと、自分に言い聞かせる。


ふらつく足取りで寝室に戻り、

ベッドに身を投げるように倒れ込む。


意識が沈みかけた、その時。


控えめなノックの音がした。


返事をするより早く、扉が開く。


「差し戻しです」


乾いた声とともに入ってきたのは、エルフリーデ付きのメイドだった。

視線も合わせず、許可も取らず、大量の書類と小さなトレイを置くと、すぐに踵を返す。


扉が閉まる音。


残された静寂。


脳まで刺し貫くような肩こりの痛みに耐えながら、エルフリーデは這うようにしてベッドから起き上がる。


テーブルの上を見て、ため息をついた。


うず高く積まれた書類の横に、水差しと、黒パンが一切れ。

そして、具の入っていない薄いスープが一皿。


――いつも通りの朝食。


エルフリーデは書類を一枚手に取り、片手で黒パンをかじり、水で流し込む。


スープの味は、よく分からない。


視界の端で、割れた爪の奥が、まだじくじくと痛んでいた。


それでも、ページをめくる手は止まらなかった。


食事とも呼べない栄養補給を終えた頃、ようやく一通りの書類に目を通し終えた。


そこでふと、ハンカチを巻きつけたままの指先に視線が落ちる。

血は止まっているが、ひび割れた爪の奥がまだ熱を持っている。


――このまま放っておいて、化膿でもしたら。


そんなことになれば、仕事に支障が出る。

それだけは、避けなければならない。


エルフリーデは小さく息を吐き、戸棚へ向かった。

中から取り出したのは、軟膏と包帯。


王宮付きの医師に診てもらった記憶は、ほとんどない。

姉は少しでも体調を崩せば、すぐに医師を呼びつけていたが、エルフリーデには、そもそも診察の時間を取る余裕すらなかった。


だから、外交の仕事で外に出た際など、

わずかな機会を見つけては薬を買い足し、こうして常備している。


それが、いつの間にか当たり前になっていた。


軟膏を塗り、包帯を巻く。

そのままでは見苦しいと言われるだろうと、

上から手袋を嵌めて隠した。


これでいい。


そう自分に言い聞かせ、

エルフリーデは再び机へ戻った。


手袋を嵌めたまま、エルフリーデは机に戻った。


まず、各部署から上がってきた案件を改めて整理する。

今日中に処理すべきもの、明日に回せるもの、判断だけ仰げば動くもの。


それぞれに簡潔な優先順位を書き込み、別紙にまとめていく。


――今日の優先順位メモ。


本来であれば、文官が作成し、王族が目を通すものだ。

だが、これもまた、いつの間にかエルフリーデの役目になっていた。


次に、王子と王女用の紙を用意する。


「本日中にご確認いただきたい案件のみ」


そう表題を付け、本当に“確認だけでいい”ものだけを抜き出して列挙する。


判断材料も、要点も、すべて揃えて。


これ以上削れない、最低限の内容だ。


書き終えた紙を二つ折りにし、それぞれの執務室へ届ける準備をする。


――読まれないだろう、と分かっていても。


実際、昨日の分も、その前の日の分も、机の端に積まれたまま返ってきていない。


それでも、作らないという選択肢はなかった。


作らなければ、誰も判断せず、結局、すべてが滞る。


それだけは、もっと困る。


エルフリーデはペンを置き、

次の書類に手を伸ばした。


朝の鐘が鳴る少し前から、エルフリーデの机の上はすでに埋まっていた。


まず取りかかったのは、来訪予定の外国使節に関する確認事項だ。


滞在中に割り当てる宿泊部屋。

王宮内か、離宮か、それとも迎賓館か。


身分と序列、過去の来訪時の不満点、同行者の数。

それらを照らし合わせながら、

「広すぎず、狭すぎず」「余計な誤解を生まない」部屋を選ぶ。


次に、食事制限。


宗教上口にできない食材。

過去に問題になった酒類。

特定の香辛料に対する忌避。


一覧表を確認し、厨房に回す指示を書き足す。


――一度でも間違えれば、外交問題になりかねない。


通訳官が提出した会談草案にも目を通す。


言い回しが、少し強い。

直訳に引きずられて、余計な含みが生まれている。


エルフリーデは赤ペンを入れ、語尾を和らげ、主語を曖昧にし、断定を避ける表現に書き換えていく。


「拒否」と取られかねない単語を削り、過去に揉めた案件を思い出しながら、地雷になりそうな語句を避ける。


――三年前、同じ言い回しで交渉が決裂しかけた。


その記憶が、自然と手を動かしていた。


続いて、贈答品の確認。


何を贈り、何を避けるべきか。

過去のトラブル一覧と照らし合わせ、誤解を招かない無難な品を選び直す。


高すぎず、安すぎず。

意味を持ちすぎず、失礼にもならない。


最後に、すべてをまとめた注意書きを一枚に落とす。


「過去の経緯を踏まえた留意点」


――誰かが読めば、役に立つはずの紙。


本来、これは外交官の仕事だ。


王女がやることではない。

第三王女が、黙って片付ける仕事でもない。


だが、誰もやらなかった。


だから、ここにある。


エルフリーデは何事もなかったかのように紙を整え、

次の書類へと手を伸ばした。


午前中は、まだ終わらない。



正午の鐘が鳴った。


それが、昼食の合図だと意識したのは、ずいぶん昔のことだ。


エルフリーデは机から離れ、書類の束を抱えたまま廊下を歩く。

口にしたのは、朝の黒パンの残りだけ。


立ったまま、紙をめくる。


噛んで、飲み込んで、次の頁を見る。


昼食を取る、という発想そのものが、今の生活にはなかった。


向かった先は会議室だ。


大きな楕円の卓。

椅子の数を確認し、席次を思い出す。


誰が遅れるか。

誰が来ないか。

誰と誰を隣に座らせてはいけないか。


それを頭の中で組み直しながら、書類を配置していく。


中央には、本日の議題。

右手側に、各部署の報告書。

左手側には、参考資料。


机の端にインク壺を並べ、ペン先を確認し、

残量の少ないものは補充する。


本来であれば、王宮メイドが行う準備だ。


だが、今日ここにいるのは、第三王女だけだった。


「……あの」


遅れてやってきた文官が、戸口で立ち止まる。


「今朝の件ですが……予定が変わったと聞いていなくて」


エルフリーデは振り返り、即座に答える。


「第二議題が先行します。第三は時間次第で後ろへ」


「え、ですがそれだと――」


「代替案はこちらです」


書類を一枚差し出す。


想定される反論。

必要な説明。

短くまとめた補足。


文官は一瞬、言葉を失い、それから慌てて頷いた。


「……分かりました」


「開始は五分後です。座席は、そのままで」


「はい」


文官が去る。


エルフリーデは時計を確認し、深く息を吸った。


スケジュールを再度組み直し、遅延が出ないよう、順番を調整する。


誰にも頼まれていない。

誰にも感謝されない。


それでも、やらなければ会議は回らない。


正午は、とっくに過ぎていた。


エルフリーデは立ったまま、最後のインク壺の蓋を閉める。


――午後も、すぐだ。


休憩の文字は、今日の予定表には存在しなかった。


午後の執務は、誰も引き受けたがらない案件ばかりが残っていた。


地方貴族同士の小競り合い。

名目は領地境界だが、実際は面子の問題だ。


片方は「先祖代々の権利」を主張し、もう片方は「王都からの正式文書」を盾にする。


どちらも譲る気はない。

どちらも、放置すれば不満を募らせる。


エルフリーデは両方の書簡を並べ、静かに考える。


――どちらが正しいか、ではない。

――どこで折れるか、だ。


言い回しを選び、主語を曖昧にし、「王命」ではなく「暫定措置」として落とし込む。


勝ち負けを作らない。

誰かの責任にも、しない。


次は、税の免除期限切れ問題。


「知らなかった」

「通達が遅れた」

「担当者が変わった」


言い訳は揃っている。


エルフリーデは過去の通達を洗い出し、“責任の所在が分散する”文面を組み上げる。


免除は延長しない。

だが、猶予は与える。


罰は与えない。

だが、次はないと匂わせる。


最後は、予算超過の報告書。


理由は分かっている。

見積もりが甘かっただけだ。


それでも、そのまま突き返せば反発を招く。


エルフリーデは数字を並べ替え、「予測外の要因」として整理し直す。


誰も嘘はついていない。

だが、誰も正直すぎない。


――爆発しない着地点。


それを作るのが、彼女の仕事だった。


書類を整え、署名欄だけを空けて、次へ。


午後は、静かに、確実に削られていった。


夕方。


窓ガラスに映った自分の姿に、エルフリーデは一瞬だけ視線を留めた。


――ひどい顔。


淡い亜麻色の髪はまとめきれず、いくつも後れ毛が落ちている。

本来は手入れされているはずのそれも、艶を失い、乾いていた。


頬はこけ、薄い緑色の目の下には薄く影が落ちている。

化粧など、いつからしていないのかも思い出せない。


着ているドレスも、王女のものとしてはあまりに簡素だった。

装飾を削り、動きやすさを優先した仕立て。

何度も袖を引っかけ、何度も洗われ、布地はくたびれている。


それでも新調はされなかった。


「他の方の仕立てがあるから」「まだ着られるから」

そう言われ続けて、いつの間にか当たり前になっていた。


指先を見る。


割れた爪の奥に滲む赤。

包帯の下で、まだずきずきと痛んでいる。


――これで、王女、なのよね。


自嘲めいた思考が浮かびかけて、エルフリーデは首を振った。


今は、それどころじゃない。


肩は重く、首を回すだけで鈍い痛みが走った。

目の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。


それでも、手は止めなかった。


今日中に終わらせないと、

明日がもっと地獄になることを、知っているからだ。


今日の遅れは、明日の混乱になる。

明日の混乱は、誰かの怒号になる。


それを浴びるのは、自分だ。


エルフリーデは歯を食いしばり、

再びペンを走らせた。


夜。


王宮は静まり返り、

人の気配はほとんど消えていた。


それでも、エルフリーデの机だけには灯りが残っている。


翌日の予定整理。

会議の順番。

差し戻しが予想される案件。


そして、引き継ぎ用のメモ。


「明日、最低限確認すべき事項」

「判断が必要な案件一覧」

「放置不可」


短く、簡潔に。

誰が見ても分かるように。


――読まれないと、分かっていながら。


それでも書く。


書かなければ、

すべてが止まるから。


最後に、机の上を見渡した。


整えられた書類の山。

順番通りに揃えられた資料。


そして、その横に置かれた、血の染みた布。


エルフリーデはそれをそっと畳み、

引き出しにしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
惨状盛りすぎ(泣) 国家中枢と考えるともう人間の仕事量を超越してるし、いなくなったら即日不具合続出の一ヶ月で完全に破綻しそう。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ