奇跡と、幕
アカネの意識は、消毒液の匂いの中でゆっくりと浮上した。
「……ん……」
目を開けると、見慣れない白い天井だった。
ボーっとする頭が、病院の一室か、となんとなく理解する。
身体を起こそうとして、全身に、筋肉痛のような鈍い痛みが走った。
「いって……」
「アカネ!」
声のした方を見ると、ベッドの脇の椅子でうたた寝をしていた、親友のハルナが、勢いよく顔を上げた。
まだ痛々しい姿であったが、彼女が動けるようになったことを示していた。
「アカネ! よかった……! 目が覚めたんだね!」
ハルナは、涙を浮かべながら、アカネの手に自分の手を重ねた。
アカネは、混乱したまま、自分の身体を見下ろした。
あの、全身を貫かれたはずの傷は、どこにもない。右手甲の、小さな傷跡を除いて。
「それは、コッチのセリフ……アタシ、どうなったんだ……?」
「覚えてないの? アカネ、あの廃工場で、倒れてたんだって……奇跡的に、ほとんど怪我はなかったんだけど、三日も眠ってたって」
三日。
アカネの脳裏に、あの死闘が蘇る。
自分は確かに死にかけていたはずだ。
いや、違う。全身を覆う、心地よい疲労感があれが現実だったと告げている。
その日から、世界は嘘のように平和になった。
アカネの元に、トリリウムが現れることはもう二度となかった。
テレビのニュースで、原因不明の災害が報じられることもなくなった。
ハルナも、もうすぐ退院できるらしい。
全てが、元通りになる。
いや、元通り以上に、完璧な世界に。
(……アタシが、世界を、救ったんだ)
痛みも、苦しみも、全てが無駄ではなかった。アタシは、ヒーローになれたんだ。
◇
――後日。
すっかり日常を取り戻したアカネは、ゲーセンからの帰り道、一人で夜道を歩いていた。
鼻歌交じりに、今日の対戦成績を思い返す。気分は、最高だった。
ハルナも退院し、うっとうしいニュースも流れなくなり、世界は完璧に元通りになったのだ。
(――アタシが、世界を、救ったんだ)
その事実は、アカネの心に、これ以上ないほどの満足感と、誇りを与えてくれた。
彼女は、満足げに、ぐっと、右手のこぶしを握りしめた。
その、瞬間。
ゴキンッ!
硬い、嫌な音がした。
アカネの、握りしめた拳。その指の関節から、まるで爪が伸びるように、鋭い刃が数本突き出していた。
「……は……?」
アカネは、自分の右手に起きた信じられない現象を、ただ、呆然と見つめた。
あの日見たような、殻花から出ていた黒く鋭い刃に似ていた。
刃は、数秒で、するすると、体内へと収納されていく。
幻覚?
いや、違う。
刃が突き出ていた指の付け根が、ズキリ、と熱を持っている。これは、現実だ。
「……なんだよ……これ……」
混乱するアカネの、その思考を背後からの声が中断させた。
「――アカネ?」
振り返ると、そこに立っていたのは親友のハルナだった。
しかし、その表情は、いつもとどこか違っていた。笑顔がなく、心配そうに眉を寄せている。
「こんなとこで、どうしたの? ぼーっとして……顔、真っ青だよ? 大丈夫?」
ハルナは、アカネの顔を気遣わしげに覗き込んだ。
「……あ、いや……なんでもねえよ」
アカネは、咄嗟に右手をポケットに隠した。
「そっか……。でも、無理しちゃだめだよ。アカネ、ほんと、ずっと変なんだから」
ハルナは、何かを言い淀むように、俯いた。そして、意を決したように、顔を上げる。
「ねえ、アカネ。アタシ……ううん、やっぱり、なんでもない」
その、不自然な会話を、遮るように。
二人の間の空間に、ぽとりと音もなく、トリリウムが現れた。
アカネの顔から、血の気が引いていく。
しかし、トリリウムは、アカネではなく、ハルナの肩に、親しげに乗った。
「やあ、ハルナ。やっぱり、ここにいたんだね」
「ト、トリリウムさん……!」
「アカネ……? お前、そいつと、知り合い……なのか?」
アカネは、信じられないものを見るような目で、二人を交互に見た。
トリリウムは、アカネを一瞥すると、すぐにハルナに向き直り、かつてないほど切羽詰まった、焦った声で、早口に言った。
「ハルナ! 大変だ! 敵が、すぐそこにいる!」
「え……!?」
「君の親友、アカネちゃんが危ない! 彼女、蝕花の毒気にやられて、弱ってるんだ! このままじゃ、彼女、アレに喰われちゃうよ!」
「ちが……アタシは……!」
しかし、トリリウムは、その言葉を遮るように、さらに畳みかける。
「時間がない! 今すぐ変身して、アカネちゃんを守るんだ! いいかい、心の中で強く願うんだよ。『アカネを、助けたい!』って!」
友達を、助けたい。
その言葉は、ハルナにとって、アカネを救いたい、という純粋な祈りが引き金となった。
深紅の光が、ハルナの身体を包み込む。
それは、かつてアカネが経験した、希望に満ちたあの光。
光が収まり、そこに立っていたのは、深紅のドレスをまとった魔法少女の姿のハルナだった。
そして、その右手甲を、一本の黒い棘が無慈悲に貫いていた。
「いっ……ああ……あああああああっ!」
親友の、初めての痛みに満ちた絶叫が、アカネの耳に突き刺さった。
それと同時に理解する。
自分は、怪物の核をその身に取り込んでしまったのだ。
自分は、もう魔法少女ではない。
蝕花そのものなのだ、と。
そして、トリリウムは、いつのまにか、ハルナと魔法少女の契約を済ませていたのだ。
ハルナは、泣きながら自分の右手に起きた惨状と、目の前で、信じられないものを見るような目で自分を見つめる、アカネの姿を交互に見ていた。
その表情に、憎悪はまだない。
ハルナの、純粋な祈り
ただ、何が起きているのか分からない、純粋な「困惑」と「恐怖」。
そして、アカネの心には、一つの絶対的な事実だけが、冷たく、重く、のしかかっていた。
(……アタシのせいで……ハルナが……)
ヒーローが掴み取って、ハッピーエンドで幕を下ろした物語。
その続きは、残酷な物語。
今、静かに幕が上がろうとしていた。




