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後悔と、奇跡

 廃工場地帯は、死んだように静まり返っていた。


 錆びついた鉄骨が、墓標のように夜空を突き刺し、割れた窓ガラスが月明かりを浴びて鈍く光る。時折、吹き抜ける風が鉄板をカラカラと鳴らす音だけが、この場所にかろうじて生命感が残っていることを示していた。


 アカネは、その中心に一人で立っていた。


 目の前にいる「それ」は、もはや、彼女が初陣で叩き潰した、あの殻花シェル・ブロッサムの面影を、どこにも残してはいなかった。


 全長は、ゆうに10メートルを超える。


 本来なら、硬い蕾のようだったはずの外殻は異常な成長によって歪に引き伸ばされ、無数の鋭い刃となって全身から突き出している。さながら、巨大な鉄のハリネズミ。


 あれが、ハルナを傷つけた。


 あれは、アタシが、育てた怪物。


「……よう」


 アカネは、自嘲気味に片手を上げた。


「ずいぶん、デカくなったじゃねえか。アタシがサボってたツケがこんなになっちまったかよ」


 彼女は、覚悟を決めて、叫んだ。


「――ジャスティス・アクト!!」


 深紅の光が、廃工場地帯を照らし出す。


 右手甲に、あの忌々しい痛みが走る。

 しかし、今の彼女にとってそれはもはや恐怖の対象ではなかった。

 これは、罰だ。アタシが、受けなければならない当然の報いだ。


 彼女は、その痛みを奥歯を噛みしめて、ただ受け入れた。


 アカネは、冷静に相手を観察した。


 ただ、デカくて、硬くて、刃が多いだけ。


 その確信は、彼女の心の奥底にあった、一つの歪んだ「事実」に支えられていた。


 ―どうせ、終われば、元に戻る。


 あの日の戦闘後、ズタズタになったはずの手が、変身を解いた瞬間に綺麗さっぱり治ったという、異常な体験。


 普通の人間なら、自分の身体が作り物のように感じて、恐怖するだろう。


 しかし、アカネは、それを「最高の武器」として認識した。


 ケンカに強い彼女だからこそ、知っている。殴れば、自分の拳も痛い。どんなにタフな人間でも、ダメージは蓄積し、やがて動けなくなる、と。


 だが、自分は違う。

 この戦いが終わる、その瞬間までは、この身体は「壊れない」。


「……行くぜ、クソ野郎」


 アカネは、大地を蹴った。


 だが、初陣の時のように、真正面から馬鹿正直に突っ込んではいかない。


(こんだけ刃が多けりゃ、こっちから殴りに行くのは、ただのバカだ)


 彼女は、廃工場の複雑な地形を利用し、鉄骨の上を、壁を、天井を、縦横無尽に駆け巡る。


 相手の注意を引きつけ、その巨体では動きにくいであろう、狭い通路へと誘い込む。


 怪物が苛立たしげに周囲の鉄骨をなぎ倒し、その巨体の一部を狭い空間に無理やりねじ込んできた、その瞬間。


「――ここだ!」


 アカネは、あえてその場で待ち構えた。


 そして、振り下ろされる刃の鞭を、最小限の動きで――いや、わざと、左腕で受け止めた。


「がっ……!?」


 肉が裂け、骨がきしむ、凄まじい激痛。左腕はありえない方向に折れ曲がっている。


 だが、アカネの目は笑っていた。


 相手の刃が、自分の身体に深々と突き刺さり、動きが止まったその一瞬。


 それが、彼女が作り出した唯一の好機。


「もらったァッ!!」


 アカネは、完全に自由になっている右手で、ステッキを渾身の力で振り抜いた。


 狙うは、自分を貫いている刃の、根元。関節部。


 凄まじい衝撃音と共に、ステッキが怪物の装甲を砕きその刃を根元からへし折った。


「ギィアアッ!」


 怪物が、初めて明確な苦悶の声を上げる。


 アカネの身体は、折れた刃と共に地面に叩きつけられた。変形した左腕が激痛を主張している。


 しかし、彼女はその痛みに顔を歪めながらも、確かに笑っていた。


(……いける。このやり方なら、いける)


 肉を切らせて、骨を断つ。


 いや、違う。


 どうせ治るこの身体だ。


 骨までくれてやって、相手の心臓を抉り出す。


 それが、網原アカネというヒーローの「ツケの払い方」だった。


 折れた左腕の激痛に、一瞬だけ意識が飛びかける。


 しかし、アカネは歯を食いしばってそれを堪えた。

 脳裏に浮かぶのは、病院のベッドで眠るハルナの姿。


 アカネは、ハルナが受けた痛みに比べれば、こんなのは屁でもないと歯を食いしばった。


 怪物が、片方の刃を折られ、苦悶の声を上げている。好機は、今しかない。


 アカネは、まだ動く右足で大地を蹴り、再び距離を取った。

 そして、自らの身体の状態を、冷静に、しかし焦りながら確認する。


 左腕は完全に動かない。だが、まだ足は二本とも動く。右腕もズタズタだが、ステッキを振るうことはできる。


 そして、何より。


 彼女は先ほどの攻防で、もう一つの「武器」の存在に気づいていた。


(……殴られたとこから、茨が……)


 刃で腕を貫かれた瞬間、裂けたドレスの傷口から、無数の黒い茨が伸び、怪物の刃に絡みつき、その表面を僅かに削り取っていたのだ。


 アカネは、それを理論としてではなく、ケンカの経験則として瞬時に理解した。


「殴られりゃ、殴り返す。単純だ」


 自らの身体を「罠」として使い、相手の攻撃そのものを、こちらの攻撃へと変える、危険な戦術が、形作られていく。


「……第二ラウンド、開始だぜ」


 アカネは、再び、鉄骨の森を駆け巡った。


 今度は、ただ隙を窺うだけではない。相手の攻撃の軌道を予測する。


 怪物が、薙ぎ払うように巨大な刃を振るう。


 アカネは、あえて、その攻撃の先端が自らの右肩を掠めるように踏み込んだ。


「ぐ……っ!」


 肩の肉が、浅く、しかし鋭く裂け、激痛が走る。


 しかし、それと同時に、裂けたドレスの傷口から迸った茨の奔流が、攻撃してきた刃そのものに絡みつき、ギチギチと音を立てて締め上げた。


「ギィッ!?」


 動きを封じられた刃に、怪物が怯む。


「そこだァッ!!」


 アカネは、そのわずかな隙を見逃さない。


 肩の痛みを無視し、ステッキを渾身の力で振り抜いた。


 狙うは、茨に縛られた刃の、根元。関節部。


 先ほどよりも凄まじい衝撃音と共に、ステッキが怪物の装甲を砕き、刃が、また一本、根元からへし折られた。

 

 痛みによる魔力の増加。 ステッキは彼女が意識せずとも、血を吸い、育っていく。


(……いける。このやり方なら、いける……!)


 その、あまりにも常軌を逸した戦い方に、離れた場所で観測していたトリリウムは、戦慄していた。


(なんだ……この子は……)


 痛みを無視するだけではない。反射の仕組みを、初見で、これほど攻撃的に利用する。


 自らの身体を的にすることで、確実に相手の動きを封じ、カウンターの一撃を叩き込んでいる。


 それは、あまりにハイリスクで、あまりに狂気的な、特攻戦術。


 その戦術は、確かに有効だった。


 しかし、その代償は、アカネの身体に確実に蓄積されていく。


 右肩を裂き、脇腹を抉られ、太腿を削られ。


 アカネの身体は、もはや満身創痍という言葉では生ぬるい。


 深紅のドレスは、自らの血で、原型を留めないほどに汚れ、引き裂かれている。


 立っているのが、不思議なほど、人としての形を失っている。


 意識は何度も途切れかけ、そのたびに、ハルナの顔を思い出して無理やり現実に引き戻す。


 しかし、その戦いは、確かに殻花に大きなダメージを与えていた。


 怪物の身体から突き出ていた無数の刃はそのほとんどがへし折られ、分厚い外殻には、蜘蛛の巣のような亀裂がびっしりと走っている。


 あと、一撃。


 あと一撃、奴の核に叩き込めば終わる。


 アカネは、最後の力を振り絞った。


 もはや、俊敏に動き回る脚力は残っていない。


 彼女は、最後の突撃を敢行する。


 力を込めれば傷口から噴き出すように血液が噴き出す。


 飛び跳ねる軌跡は、普通の魔法少女のような煌めくようなものではなく、鮮血の軌跡。


 怪物が、最後の力を振り絞り、残った数本の刃で彼女を迎え撃った。


「おおおおおおおっ!」


 アカネは、迫りくる刃を避けずに、その全てを、自らの胴体で受け止めた。


 何本もの刃が、彼女の腹部を、胸を、貫く。


「が……は……っ」


 傷から、口から、大量の血が溢れ出す。


 しかし、彼女の瞳は、まだ、死んでいなかった。


 その目は、確かに、怪物の核――亀裂の中心で、不気味に脈動する、赤いコア――を、捉えていた。


(……これで……終いだ……!)


 彼女は、自らの身体を貫く刃を、まるで杭のように利用して、その場に身体を固定する。


 そして、残された最後の力、最後の怒り、最後の後悔、その全てを右腕に込めた。


 ズタズタになった掌が、グリップの棘でさらに深く抉れる。


 だが、もう、痛みは感じなかった。


 ステッキが、振り上げられる。


 それは、アカネの、ヒーローとしての、最後の、最後の一撃だった。


 時間の流れが、極限まで引き伸ばされたかのように、ゆっくりと感じられた。


 怪物の核が、まるで巨大な心臓のように、ドクン、ドクンと、不気味に脈動しているのが見える。


 アカネの身体を貫く、何本もの刃。その冷たい感触。


 口から溢れ、顎を伝う、血の温かさ。


 そして、脳裏をよぎる、遠い記憶。


 遠くで、誰かの声が聞こえる。


『アカネ、またケンカしたの? しょうがないなあ』


 ああ、これは、ハルナの声だ。


『ほら、手、出して? 消毒するから』


『……しみるから、ヤだ』


『我慢しなさい! ヒーローなんでしょ?』


 そうだ。


 アタシは、ヒーローに、なりたかったんだ。

 誰かを守れる、強くて、カッコいい、ヒーローに。


 それなのに、アタシは。

 痛いのが嫌なだけで、逃げ出して。


 そのせいで、一番守りたかったはずの親友を傷つけた。


 なんて、ダセえヒーローだ。


(……でも)


 アカネの唇に、血に濡れた、不敵な笑みが浮かんだ。


 今ここでこいつを倒せば――ほんの少しは、ヒーローに近づけるかもしれない。


「……最初に、ちゃんとやっとけば、よかったな……」


 その、たった一言の後悔を、最後の燃料にして。


 アカネは、振り上げたステッキを叩きつけた。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」


 ゴガアアアアアアアアンッ!


 ステッキは、怪物の核を、寸分違わず、完璧に捉えた。


 アカネの、全ての怒り、後悔、そして、ヒーローとしての最後のプライドが、一点に凝縮された、渾身の一撃。


 破壊のエネルギーが、深紅の奔流となって、核を内側から完全に粉砕する。


 怪物の巨大な身体が、びくん、と大きく痙攣した。


 脈動していた核の光が、まるで電球が切れるように、ぷつり、と消える。


 アカネを貫いていた刃が、力を失いだらりと垂れ下がる。


 そして、巨大な外殻が、まるで砂の城のように、ゆっくりと、静かに、崩れ落ちていった。


 戦闘は、終わった。


 後に残されたのは、鉄骨の瓦礫の山と、その中心で、自らを貫いた刃に磔にされたまま、動かなくなった、一人の魔法少女の姿だけだった。


「……は……はは……」


 アカネは、血の泡を吹きながら、乾いた笑いを漏らした。


(……やった……ぜ……)


(……ハルナ……ごめ……な……)


 ――ジャスティス・アクト


 それを言葉にも、心にも浮かべることができないまま。


 彼女の意識は、そこで、完全に暗転した。


 喉元の、小さな薔薇の蕾が、主の生命の灯火が消えかけているのを感知し、その最後の役目を果たそうと、ゆっくりと、しかし確実に、その花弁を開き始めた。


 ――《最終開花》。


 離れた場所で観測していたトリリウムは、その光景を、満足げに見ていた。


(結果オーライ、ってとこかな。 もう少し生きていてくれれば、次も使えたのに)


 しかし、その結末は、トリリウムの計算通りには、ならなかった。


 アカネの《最終開花》が、完全に起動する、その直前。


 彼女の身体を貫いていた、怪物の刃。

 その残骸が、主を失った魔力に呼応するかのように、淡い光を放ち始めたのだ。


 そして、その光は、アカネの身体の中へと、まるで傷口を塞ぐかのように、ゆっくりと、吸収されていった。


「……なっ!?」


 トリリウムが、初めて、素っ頓狂な声を上げた。


 怪物の残骸に残っていた、膨大な生命エネルギーが、瀕死のアカネの身体を、治療し始めたのだ。


 それは、システムが全く想定していなかった、奇跡。あるいは、ただのバグ。


 喉元で開きかけていた薔薇は、主の生命力が回復していくのを感知し、ゆっくりと、その花弁を閉じていく。

 《最終開花》は発動しなかった。


 アカネの身体を貫いていた傷は、驚異的な速度で塞がっていく。


 やがて、変身が解けた彼女の身体には、右手甲の小さな傷跡以外、あの死闘の痕跡は、どこにも残っていなかった。


 ただ、気を失い、深く眠っているだけだった。


「……うそだろ……」


 トリリウムは、その光景を、呆然と見つめていた。


「……生き残った……のか……? あの状態で……?」


 死ななかった。奇跡。


 もちろん、アカネ自身は、その奇跡にまだ気づいていない。


 彼女はただ、ボロボロになった心と身体を休めるように、静かな寝息を立てているだけだった。


 その寝顔は、ようやく重い荷物を下ろすことができた、ただのやんちゃな少女の顔をしていた。

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