ツケと、罪悪感
あの日以来、網原アカネの日常はまるで画鋲を踏んだまま歩いているかのように、些細なことで苛立つ不機嫌なものへと変わっていた。
「アカネ……また、行くの?」
声をかけてきたのは、幼馴染の橘ハルナ(たちばな はるな)だった。
アカネとは対照的に、物静かで誰にでも優しい性格。アカネが学校をサボっても、強くは言えない。
ケンカで怪我をすれば、黙って心配そうに絆創膏を差し出してくれる、そんな親友だ。
「……別に、お前には関係ねえだろ」
アカネは、ポケットに手を突っ込んだまま、吐き捨てるように言った。
「ううん、そんなことないよ。アカネ、最近なんだかすごく……辛そうだから」
ハルナは心配そうにアカネの顔を覗き込んだ。その瞳は、アカネの不機嫌の奥にある、何かを見透かそうとするかのように、優しく、そして、少しだけ悲しげだった。
その、純粋な善意の眼差しが、アカネの心の奥に刺さった見えない棘をチクリと刺激した。
(……変、だよな。そりゃ)
あの日から、アカネは時々、何でもない瞬間に右手に幻の痛みを感じるようになっていた。
ゲームセンターのレバーを握った時。ジュースの缶を開けた時。
ふとした瞬間に、あの肉が裂け、骨がきしむ感触が、フラッシュバックする。
そのたびに、アカネはやり場のない怒りと恐怖に襲われ、それを誤魔化すように、格闘ゲームのコンボに没頭したり、クレーンゲームの景品に八つ当たりしたりしていた。
「……別に、何でもねえよ」
アカネは、ハルナから顔を背けた。
言えるはずがない。
自分が一日だけ「魔法少女」になって、血みどろの戦いをして、そして、怖くなって逃げ出したなんて。
そんなアカネの苛立ちを、テレビのニュースがさらに煽った。
『……本日未明、隣町の倉庫街で、原因不明の小規模な爆発が観測されました……』
画面の隅に映し出される、少しだけ破壊された倉庫の写真。
アカネは、舌打ちをした。
(……またかよ)
あの日以来、トリリウムは、毎日のようにアカネの前に現れた。
そのたびに、アカネは彼を無視し、部屋から追い出していた。
「アカネ、今のニュース……」
ハルナが、不安そうな顔でアカネを見る。
「最近、こういう変な事件多いよね。なんだか、怖いな……」
「アタシ、ゲーセン行くわ。じゃあな」
アカネは、無理やり話を打ち切ると鞄を掴んで立ち上がった。
「あ、アカネ……!」
ハルナの、か細い制止の声が、背中に刺さる。
アカネは、それを振り切るように、逃げるように教室を飛び出した。
罪悪感がなかったわけではない。
自分がサボっている間に、どこかで、誰かが、あの怪物に襲われているのかもしれない。
でも、あの痛みを、もう一度味わうくらいなら。
(……誰か、他のやつが、なんとかするだろ)
そう、自分に言い聞かせる。
この星の魔法少女が、自分一人だけだという、あの重い事実から、必死に目を逸らしながら。
アカネは、ゲームセンターの喧騒の中に、自らの責任と罪悪感を、無理やり溶かして忘れようとしていた。
その「ツケ」が、やがて、最も大切な親友の元へと最悪の形で請求されることになるなど、まだ想像もせずに。
◇
アカネが魔法少女の任務を職務放棄してから、数週間が過ぎた。
その間、街では、原因不明の小さな事件――蝕花の幼体によるもの――が、何度か起きていた。
アカネは、それらのニュースを横目で見ながら、「アタシには関係ねぇ」と、目を逸らし続けていた。
トリリウムの警告も、親友であるハルナの心配も。
その日も、アカネはいつものようにゲーセンで格闘ゲームに興じていた。
調子がよく、対戦相手をパーフェクトで下し、苛立ちを少しだけ発散させた、その時だった。
ポケットの中のスマートフォンが、けたたましい着信音を鳴らした。
画面に表示されたのは、ハルナの母親の名前。
嫌な予感が、背筋を走った。
「……もしもし?」
『アカネちゃん!? ハルナが……ハルナが!』
電話の向こうから聞こえてきたのは、半狂乱になった親友の母親の、悲鳴のような声だった。
ハルナが、塾の帰りに、例の《原因不明の災害》に巻き込まれた、と。
アカネは、スマートフォンを握りしめたまま、病院へと走った。
廊下の奥、集中治療室のランプが、冷たく、無機質に光っている。
ガラスの向こう側、ベッドの上には、白い包帯に巻かれ、たくさんのチューブに繋がれた、ハルナの姿があった。
医者の説明は、ほとんど頭に入ってこなかった。
正体不明の鋭利な何かで、全身を切り刻まれている。危険な状態だ、と。
アカネは、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
もし、アタシがあの時ちゃんとやっていれば。
アタシが、サボって逃げていなければ。
ハルナは、こんなことにはならなかった。
罪悪感。自責の念。そして、どうしようもないほどの自分自身への怒り。
その時、病室の隅の暗がりから小さな声がした。
「……だから、言ったじゃないか」
アカネは、何も答えなかった。ただ、ベッドの上でか細い呼吸を繰り返す、親友の顔を涙で滲む目で見つめていた。
(ごめん、ハルナ……)
アカネは、ゆっくりと立ち上がった。そして、トリリウムの方をまっすぐに見据えた。
その瞳には、もう、迷いも、逃避もなかった。
「……あいつは、どこだ」
「……街の外れの、廃工場地帯に巣を作っているよ」
トリリウムは、アカネの決意に満ちた瞳を見て、確信したように続けた。
「あれは、君が放置したせいで、とんでもなく強くなってしまった。普通の魔法少女じゃ、もう手に負えないだろうね」
彼は、そこで一息つき、アカネの心に最後の一押しをするように、囁いた。
「……でも、君なら倒せるよ、アカネ。君は最初から特別だったからね。さあ、行って! 君の親友のために。そして、君がなるはずだった本物のヒーローになるために!」
「……うるせえ」
アカネは、トリリウムの言葉を遮った。
これは、世界のためじゃない。誰かのためでもない。
ただ親友を傷つけられた、アタシ自身のケジメ。
彼女は、病院を飛び出した。
向かう先は決まっている。
ズキリ、と。
右手甲の、小さな傷跡がまるで共鳴するかのように、熱く痛んだ。
それは、これから始まる、絶望的な戦いの、そして、彼女の最後の戦いの始まりを告げる合図だった。




