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憧憬と、放棄

 網原アカネ(あみはら あかね)は、いつだってヒーローになりたかった。


 日曜の朝にテレビにかじりついて見た、カラフルな戦隊ヒーロー。

 本棚にずらりと並んだ、アメコミのヒーローたち。

 彼らのように悪をバッタバッタとなぎ倒し、「後は任せろ!」と笑ってみたい。

 それが、彼女の何よりの夢だった。


 実際、アカネは正義感が強く曲がったことが大嫌いだった。


 公園で小さい子をいじめている中学生を見つければ、たとえ相手が年上だろうと、男だろうと、真正面から突っかかっていく。ケンカも、そこそこ強かった。


 だから、それが現れた時、彼女は恐怖よりも先に、高揚を覚えた。


「――マジかよ」


 学校の屋上。


 サボりの常習犯である彼女の前に、音もなく現れた、ぬいぐるみのような生き物。


 トリリウムと名乗ったそれは、アカネに、この世界の裏側で起きているという、胸の躍るような御伽噺を語り始めた。


 世界を蝕む怪物「蝕花」。それと戦う、選ばれた存在。


「君のその強い正義感と、有り余る勇気。それこそが、世界を救う力になるんだ」


「……へぇ」


 アカネは、ニヤリと口の端を吊り上げた。


「面白いこと言うじゃん、お前」


 彼女は、トリリウムを指先でちょいとつつくと、一つの質問を投げかけた。


「でもよ、そりゃあ、魔法少女じゃなきゃダメなのか? ヒーローじゃ、ダメなのか?」


 アカネがなりたいのは、あくまで「ヒーロー」だ。フリフリのスカートを履いた可愛い魔法少女ではない。


 すると、トリリウムは、待ってましたと言わんばかりに答えた。


「呼び方が違うだけさ! 魔法少女も、ヒーローも、やることは同じだよ! 悪者をやっつけて、みんなを守る! でも、この星の力を借りるには、どうしても魔法少女っていう形じゃないといけないんだ!」


 彼は言葉巧みに、アカネが最も望むであろう答えを提示した。


「……なるほどな。まあ、形なんざどうでもいいか。要は、アタシが悪者をぶっ飛ばせりゃ、それでいいんだろ?」


 アカネはガシガシと頭を掻きながら、快活に笑った。


「よし、決めた! やってやるよ、その魔法少女ってやつ!」


 彼女にとって、それは夢への第一歩。憧れのヒーローになるための最高のチャンスだった。


 トリリウムも、彼女のそのポジティブなエネルギーと、単純明快な正義感の強さに「これは大当たりだ」と確信する。


 ◇


 それから数日後。


 街に、警報が鳴り響いた。


 アカネは、「待ってました!」とばかりに屋上へと駆け上がった。


 眼下には、民間人を襲おうとしている、雑魚の殻花の姿が見える。


「よっしゃ、いっちょ、派手にいくか!」


 彼女は、自分で考えた、とびっきりの決め台詞を叫んだ。


「――正義執行ジャスティス・アクト!!」


 深紅の光が、アカネの身体を包み込む。


(おお……! なんか、すげえ!)


 初めての体験に、彼女のテンションは最高潮に達していた

 。

 キラキラの衣装、カッコいいステッキ。スカートは、まあ、ちょっとアレだが、許容範囲だ。


 全てが、彼女の理想通り。


 最強のヒーロー、《魔法少女アカネ》が、今、ここに誕生した。


 そう、思った、その瞬間。


 グサリ。


 脳に直接響くような、鈍く、生々しい音がした。


 右手に、焼けるような激痛が走る。


「……は?」


 見れば、ステッキを握っている右手の甲。


 その、いつも拳を固めている、少しだけ傷の多い皮膚を、グリップから伸びた黒い棘が、深々と容赦なく貫いていた。


 逆さ針の棘が、皮膚を突き破り、その下の肉にまでがっちりと食い込んでいる。


 傷口からは、じわじわと、しかし確実に、真っ赤な血が溢れ出し、黒い棘の根元を濡らしていた。


 高揚感で満たされていた心臓が、氷水で冷やされたように縮み上がる。


 キラキラの衣装も、みなぎる力も、この一点のあまりに生々しい痛みと光景によって、急速に色褪せていく。


「い……っ……て……」


 声にならない声が、喉から漏れた。


 何かの間違いだ。そう思いたくて、ステッキから手を離そうとする。


 しかし、指を開いても、ステッキはびくともしない。


 それどころか離そうと力を込めるたびに、逆さ針の棘が肉をさらに抉り、耐え難い激痛が神経を駆け巡った。


 手首には茨が何重にも巻き付き、彼女の手をグリップへと、完全に固定していた。


 これは、ヒーローの証じゃない。


 これは、ただの、痛いだけの、呪いの道具だ。


「……んだよ……これ……」


 アカネの瞳から、ヒーローの輝きが急速に失われていく。


 その代わりに宿ったのは、裏切られた子供のような、純粋でどうしようもないほどの、深い、深い、怒りの色だった。

 ズキズキと脈打つように痛む右手。じわりと広がる血の感触。


 目の前には、民間人に襲いかかろうとしている怪物。


 そして、この全ての元凶であるあのぬいぐるみ。


 アカネの中で、何かがブツリと切れた。


「……この野郎……!」


 彼女は、気合でその痛みをねじ伏せた。いや、違う。思考を焼き尽くすほどの灼熱の怒りが、痛みという些細な感覚を、一時的に麻痺させていた。


 トリリウムが「ステッキを強く握りしめて、魔力を撃ち出すんだ!」と叫ぶが、アカネの耳には届いていない。


 魔力を撃ち出す?


 そんな、まどろっこしいことができるか。


「おおおおおおおっ!」


 雄叫びと共に、アカネは屋上のフェンスを飛び越え、地上へと飛び降りた。


 数階建てのビルに相当する高さから、彼女は、まるで砲弾のように、アスファルトを砕きながら着地した。


 無意識の中強化されたアカネの身体能力は、常人のはるか上。

 そして、そのままの勢いで殻花へと突貫する。


 彼女が選んだ攻撃方法は、あまりにも原始的で、あまりにも彼女らしかった。


 アカネは、右手に固定されたステッキを、魔法の杖としてではなく、ただの棘付きの鉄棍モーニングスターとして、力任せに振りかぶった。


「……くらいやがれ!!

 」

 怒りに任せて振り下ろされた一撃が、殻花の硬い外殻に叩きつけられる。


 ゴガンッ!


 凄まじい衝撃音。アカネ自身も、気づいていない。彼女の怒りが、無意識のうちにステッキへと魔力を注ぎ込み、ただの殴打を絶大な威力を秘めた魔法攻撃へと昇華させていたのだ。


 ステッキが衝突した瞬間、深紅の魔力が炸裂し、殻の外殻に、巨大な亀裂を走らせる。


「ギィッ!?」


 予想外のダメージに、殻花が怯む。


 だが、アカネは攻撃の手を緩めない。


「うらぁっ!」


 二撃目、三撃目と、彼女はステッキを滅茶苦茶に振り回した。


 そのたびに、グリップに仕込まれた無数の小さな棘が、彼女の掌の皮膚を裂き、肉を抉る。


 しかし、アドレナリンと怒りで感覚が麻痺したアカネは、そのことに気づかない。


 彼女は、ただ、目の前のムカつく相手を、叩き伏せることしか考えていなかった。


 ステッキで殴り、亀裂を広げ、怯んだところに蹴りを入れ、体勢が崩れたところを、さらにステッキで、何度も、何度も、殴りつける。


 それは、洗練された戦いなどではない。ただの、獣じみた、剥き出しの暴力。


 やがて、殻花はその嵐のような猛攻に耐えきれず、断末魔の短い悲鳴と共に、光の塵となって消滅した。


 戦闘には、圧勝した。


 後に残されたのは、勝利の余韻ではなく、絶対的な静寂だった。


「……はぁ……はぁ……っ」


 アカネの荒い呼吸だけが、破壊された路上に響く。


 そして、興奮が冷めていくにつれて、麻痺していた感覚が、ゆっくりと、しかし確実に、戻り始めた。


 ズキィッ!


「……あ……?」


 最初に気づいたのは、右手甲を貫く、あの忌々しい棘の痛み。


 しかし、痛みは、そこだけではなかった。


 右手の、掌。指。手首。


 ステッキを握っていたはずの、その全ての場所から、まるで数千本の針で同時に突き刺されるかのような、灼熱の激痛が、津波のように押し寄せてきた。


「……い……ぎ……ぁ……ッ!」


 アカネは、思わずその場に膝をついた。


 あまりの激痛に、本能的にステッキを手放そうとする。しかし、指一本、動かせない。


 手首に、蔓のような茨が何重にも巻き付き、皮膚に食い込んでいるのが見えた。この拘束がなければ、あまりの痛みに、とっくにステッキを手放していただろう。

 だが、その蔓は、まるで生きているかのように、彼女の手をグリップへと、無慈悲に固定し続けていた。


 恐る恐る、自分の右手を見る。


 そこにあったのは、もはや「手」と呼べるようなものではなかった。


 ステッキのグリップにびっしりと並んだ、目に見えないほどの小さな棘によって、掌の皮膚はズタタに引き裂かれ、もはや原型を留めていない。


 血と、裂けた皮膚と、肉が、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、ステッキのグリップと、まるで溶接されたかのように一体化してしまっている、ただ、グロテスクな、肉塊。


「……あ……ああ……ああああ……っ!」


 痛みと、自らの手の惨状を認識した恐怖で、アカネの全身がガタタと震え始めた。


 どれだけ正義感が強くても、どれだけ気が強くても、彼女はまだ、十代の少女に過ぎない。


 その心と身体が許容するには、この痛みは、あまりにも、過酷すぎた。


 アカネの心は、勝利の達成感などではなく、ただ、純粋な、逃げ場のない痛みによって、完全に満たされていた。


 その時、能天気な声が、彼女の耳に届いた。


「やったじゃないか、アカネ! 最高のヒーローだったよ!」


 能天気な声が、痛みに満たされたアカネの世界に、亀裂を入れた。


 声のした方を見ると、トリリウムが、まるで全て計算通りだったとでも言うかのように、嬉しそうにこちらへと飛んでくるところだった。


 その、無邪気な顔。自分だけが安全圏にいる、絶対的な当事者意識の欠如。


 それを見た瞬間、痛みと恐怖に支配されていたアカネの心に、再び、沸点を超えた灼熱の怒りが、灯った。


「……てめえ……!」


 アカネは、ズタズ-タになった右手とは逆の、空いている左手で、鷹が獲物を狩るように、素早くトリリウムを鷲掴みにした。


「ひゃっ!?」


「最高のヒーローだぁ? ふざけんじゃねえ! アタシの手、どうなってんのか、見えてんのか!?」


 彼女は、捕まえたトリリウムを、もはや肉塊と化した自らの右手へと、ぐいと引き寄せた。


「ああ!? じゃあ、てめえも味わえよ! アタシが、どんだけ本気だったか、なあっ!」


 アカネは、掴んだトリリウムを、自らの右手に突き刺さった、ステッキの棘だらけのグリップへと、容赦なく擦り付けた。

 フェルト生地の身体が、血と肉にまみれた無数の小さな棘に擦られ、わずかに毛羽立つ。


「ぎゃあああっ! 痛い痛い痛い! 何するんだい!?」


 しかし、その行為は、アカネ自身にも、さらなる地獄をもたらした。


 トリリウムの身体をグリップに押し付けることで、ズタズタになった掌の傷口に、棘がさらに深く食い込む。


「ぐ……ぅうううっ!」


 アカネの口から、トリリウムの悲鳴をかき消すほどの、凄まじい苦悶の声が漏れた。


 相手を傷つけようとする行為が、巡り巡って、自分自身の傷を、さらに深く抉る。


 その、あまりにも理不尽な構造に、アカネの心は、ついに限界を迎えた。


「ま、待つんだアカネ! 落ち着いて! 変身を解けば元に戻る! だから、早く変身を解くんだ!」


 トリリウムは、自らの身を守るため、そして、この狂乱状態の少女を落ち着かせるため、必死に叫んだ。


「……変身を、解けば……?」


 アカネの動きが、ぴたりと止まる。


「そ、そうだよ! 魔法少女の身体は、魔力で守られてるからね! 心の中で、もう一度『ジャスティス・アクト!』って叫ぶんだ! そうすれば、変身が解けて、傷も、痛みも、全部リセットされるんだよ!」


 それは、半分本当で、半分嘘だった。変身を解くのに、掛け声は必要ない。だが、パニックに陥った少女を誘導するには、具体的なアクションを提示するのが一番手っ取り早い。


 アカネは、半信半半疑のまま、しかし、この地獄の痛みから解放される唯一の可能性に賭け、トリリウムに言われた通り、心の中で叫んだ。


(……ジャスティス・アクト!)


 深紅の光が、一瞬だけ彼女の身体を包み、そして、霧散する。


 魔法のドレスが消え、いつものラフな私服姿に戻る。


 それと同時に、あれほど彼女を苛んでいた、右手の灼熱の痛みが、すぅっと、まるで嘘だったかのように消え去った。


 恐る恐る、自分の右手を見る。


 そこにあったのは、先ほどまでのグロテスクな肉塊ではない。


 甲の中心に、小さな、注射痕のような傷跡が一つだけ残っているのを除けば、いつも通りの見慣れた自分の手だった。


 ステッキも、手首の茨も、消えている。


「……ほらね、大丈夫だったろう?」


 トリリウムが、九死に一生を得たように、安堵の息をついた。


 しかし、アカネは、何も答えなかった。


 彼女は、ただ、自分の右手を開いたり閉じたり、じっと見つめている。


 痛みは、消えた。傷も、消えた。


 だが、あの、肉が裂け、骨がきしむ感触。血のぬるりとした温かさ。

 その記憶は、彼女の脳裏に、そして、この手の平に、決して消えることなく、焼き付いていた。


「……もう、たくさんだ」


 アカネは、静かに呟いた。


「は?」


「だから、もう終わりだって言ってんだよ」


 彼女は、トリリウムを、心の底から軽蔑しきった目で見下ろした。


「これは契約違反だ。アタシは、こんな地獄みたいなイベントに参加するために、ヒーローになったんじゃねえ。 アタシはもうやんねえ! 他のやつにやらせろよ!」


 アカネは、そう言って、トリリウムに背を向けた。


「そ、そんなこと言ったって……」


 地面に転がったまま、トリリウムは困惑しながら呟く。


「魔法少女は……君一人しかいないんだよ……」


 その、あまりにも重い事実を、トリリウムは告げた。


 しかし、アカネは、その声に振り返りもせず、中指を立てた。


「知るかよ、バーカ! アタシはもう寝る!」


 彼女は、ヒーローであることから、たった一日で、完全に逃げ出した。


 全人類の命運を、その肩に背負っていることなど、知る由もなく。


 その選択が、やがて、最悪の「ツケ」となって、自分自身に返ってくることなど、まだ知る由もなく。


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