解答と、落第点
群花との死闘から一夜が明けた。
自室のベッドで目覚めたルリカの身体は驚くほど軽く、昨日あれほどの深手を負ったのが嘘のように痛みは完全に消え去っていた。
ルリカはベッドから降りると無言でパジャマのボタンを外し、姿見の前に立った。
そして一瞬だけ息を呑んだ。
そこに映っていたのは、もはや昨日の彼女ではなかった。
白い肌の上に無数の黒く細い線が走っている。
システムによる修復が残した、決して消えることのないログデータ。
肌に浮かぶその紋様を見つめる彼女の瞳に、嫌悪はなかった。
むしろそれは彼女にとって、難解な証明問題を誰にも真似できない独創的な解法で解き明かした、輝かしい「証明」の数式そのものだった。
自らの肉体をコストとして支払うことで、どんな問題にも解は導き出せる。
彼女にとって、その全身に刻まれた黒い線は甘美な万能感の象徴であった。
指先でなぞると、微細な隆起が皮膚の下でさざめき、冷えた回路のような感触が走った。
◇
放課後。友人たちとの当たり障りのない会話を終え、一人になった帰り道。
耳の奥には、まだ友人たちの声が残響のようにこびりついていた。
「昨日のサイレン、めっちゃ怖かったよね……」
「また変なこと起きてたのかなぁ。巻き込まれないといいんだけど」
その、あまりにも平和で他人事な会話。
全てを知る当事者でありながら、完璧な相槌を打ち、何一つ知らない優等生を演じきった自分。
その瞬間に感じた、友人たちとの間に横たわる、決して埋まることのない深い溝。
それが彼女の心に走った亀裂の正体だった。
これまでと同じ風景のはずなのに、全てがどこか色褪せて見えた。
学校という、あまりにも単純で退屈な問題しかない世界。友人たちの恋バナも、次の小テストの範囲も、全てが取るに足らない些細なことに思える。
ふとした瞬間に、制服の下の全身の傷跡がズキリと疼くような錯覚に陥る。
それは痛みではない。膨大な魔力が、まだ完全に馴染みきっていない肉体を巡る、システム的なノイズ。
だがその感覚こそが、彼女を退屈な日常からスリリングな非日常へ引き戻す唯一のリアルだった。
歩くたび、靴底の砂が細かく砕けて薄い音を立て、そのたびに腕の下で線が微かに熱を帯びた。
彼女の知的好奇心と、あの戦いで手に入れてしまった万能感は、もはやこんな生温い日常では到底満たされない。
スリリングな計算。予測不能な変数。そして自らの全てを賭して導き出す、完璧な解答。
あの興奮を、あの陶酔を、身体が、魂が求めている。
彼女は制服のブラウスの袖を少しだけめくり、腕に走る黒い傷跡を見つめた。
これは、あのスリリングな計算の証。
もっと試したい。この力を。この頭脳を。
より難解で、より危険な問題であればあるほど、自らの計算能力の正しさを証明できる。
彼女は次の問題の出現を、もはや無意識に渇望している自分にはっきりと気づいていた。
(早く、次が来ないかしら。この力があれば、どんな問題だって——)
その傲慢な願いが天に届いたかのように。
あるいは悪魔がその祈りを聞き届けたかのように。
翌日の深夜。ベッドの中で完璧な解答を夢想していた彼女の耳を、あの甲高いサイレンが切り裂いた。
空気が一段だけ硬くなり、鼓膜の内側で圧が沈む。すぐに遠くの赤色灯が壁を薄く染めた。
ルリカはゆっくりと身を起こした。
窓の外、遠くの夜空が不気味に赤く染まっているのが見える。
恐怖はない。驚きもない。彼女の口元に、かすかな、しかし確信に満ちた笑みが浮かんだ。
◇
深夜の冷たい空気が肌を刺す。
ルリカは、高台にある営業を終えたスーパーマーケットの、広大な駐車場のフェンスに立っていた。
眼下には、彼女が守るべき街の夜景が、宝石箱をひっくりかしたように静かに広がっている。
だが、今夜の彼女の目にその美しさは映っていなかった。
アスファルトの中央を突き破って姿を現していたのは、二本の巨大な根のような怪物。
地中からは、低い振動音が絶えず響き、アスファルトの地面が呼吸するように脈動していた。
彼女は、深紅の光と共に変身を遂げる。
手にしたステッキの黒い茨が、金属のように硬質な音を立てて伸び、彼女の手に食い込み、その手を絡めとる。
ルリカは一度だけ呼吸を整え、静まり返った駐車場へと降り立つ。
地の反動が脛に残り、茨が脈に合わせて微かに疼いた。
地鳴りのような振動が地面を這い、双根が、まるで獲物を認識したかのようにうねりを強めた。
片方が蠢けば、もう片方が即座に反応する。表面は、不気味なほどに黒い鉄のような樹皮と粘性の液体に覆われている。
(……双根。双方向に分岐した単一神経体。同期行動……遅延ゼロ。攻撃が二重化するタイプ)
一体の強敵。だが、群花との戦いで得た経験が、彼女に最適解を導き出させる。
(敵は巨大、攻撃を受けきれない可能性を考えると、カウンター戦術はリスクが高い。自傷による最大出力の《茨の嵐》で、短期決戦が最も合理的だ)
《茨の嵐》。
それは、自らの身体を一度に、そして大きく傷つけることで、最大限の火力を引き出す捨て身の技。
しかし、その代償として、術者の肉体にかかる甚大な負荷は、精密な魔力操作を不可能にする。
無作為の方向に力が拡散する可能性も高く、その効果範囲は完全には絞り込めない。
静まり返った駐車場に、双根が車体をきしませる音だけが響いていた。ヘッドライトが割れ、絡め取られたミニバンの下から、漏れ出したガソリンがアスファルトに黒い染みを作っている。
だが、その小さな変数を、この時の彼女は、まだ意に介してはいなかった。
予定通りにその最適解を実行すべく、彼女はステッキを胸の前に構え、自らの身体を抱きしめるための予備動作に入る。
短期決戦こそが、被害を最小限に抑える最善手。彼女は、それを微塵も疑っていなかった。
まさに、その刹那。
彼女の視界の端に、駐車場の片隅にある、見慣れたものが映った。
檻のような、頑丈な金属製の柵。その中に、鈍い灰色の巨大なカプセル状のタンクが鎮座している。
スーパーの厨房で使われる、業務用のガスタンク。
(……待て)
焦げた臭いが鼻を刺す。
匂いが変わった。甘く、刺すような匂い。
思考が、凍り付く。
ガス。ガソリン。酸素。――組み合わせが、最悪だ。
これでは《茨の嵐》を使うことはできない。
彼女が信じて疑わなかった最適解は、敵を倒すのと引き換えに、守るべき日常を破壊し、自らの生存も脅かす最悪手へと、一瞬で変貌した。
静けさが一拍遅れて戻り、心拍だけが大きくなる。
「……っ!」
彼女のプライドが、かみしめた奥歯と共に、ギリ、と音を立てて軋む。
自分の計算式に、これほど単純で、これほど致命的な変数が抜け落ちていた。その事実が、何よりも屈辱だった。
「ギィィィッ!」
彼女の逡巡を好機と見たのか、双根が二本の根を、巨大な鞭のようにしならせ、彼女へと襲い掛かる。
ルリカは、非効率と判断した、精密な攻撃でこの悪夢のような応用問題に挑むしかなかった。
ステッキを強く握りしめる。指の間に食い込む、皮膚を裂き、肉に刺さる棘の痛み。
その代償として、ステッキの先端に魔力の光が収束していく。
「ギィィィッ!」
彼女の逡巡を好機と見た双根が、巨大な二本の根を、鞭のようにしならせ襲い掛かる。
ルリカは即座に後方へ跳躍しながら、魔力の矢を放った。狙うは、根の付け根にあると予測した核。
だが、ここで第二の、そして致命的な計算ミスが明らかになった。
双根は、二本の根がそれぞれ独立した思考で動き、一方が攻撃している間、もう一方が必ず『核』となる部分を的確に庇う。
完璧な連携防御により、彼女が放った魔力の矢は、分厚い根に阻まれて弾け飛び、致命傷には程遠い、焦げ跡を残すだけにとどまった。
(ダメだ……届かない……! 私の攻撃が、通らない……!)
正確な照準を定めながら、敵の攻撃を貫く、魔力をためる時間が足りない。
双根の薙ぎ払うような一撃を、ルリカは地面を転がるようにして、かろうじて回避した。
だが、その無様な回避の代償は安くはない。受け身も取れず、アスファルトに肩や腰を強かに打ち付け、むき出しだった肌がザラついた路面で削られて、新たな熱と痛みが走る。
砂粒が皮膚に貼りつき、布地が擦れて火花のような痛みを残した。
そして、彼女が転がり込んだ先は、ガソリンの黒い染みが最も濃く広がった場所だった。
深紅の衣装の裾どころではない。
その半身が、虹色の光沢を放つ粘つく液体に浸り、じわりと、醜く黒く汚れていく。
削れて血が滲んだ肌にまで、ガソリンが染み込み、焼けるような痛みが走る。
鼻腔を突き、思考を鈍らせるような、甘く不快な異臭。
完璧であるはずの魔法少女の姿が、血と泥と、そして油にまみれていく。
双根の薙ぎ払うような一撃を、ルリカは地面を転がるようにして、かろうじて回避した。
このままでは、ジリ貧の果てに敗北するだけだ。
彼女は、最後の魔力を振り絞り、一つの可能性に賭けることを決意した。
現状の変数を全て計算に入れた、最後のシミュレーション。
弱点を庇う二本の根。その両方を、同時に、完全に破壊する。
そのためには、両手が修復不可能なレベルまで破壊されることを覚悟の上で、相手の攻撃を受けながら、最大出力の魔力を二本の矢として同時に放つしかない。
彼女は、汚れた身体を引きずり、スーパーの壁だけが射線に入る角度へと移動した。
(この角度ならば、たとえ貫通しても、被害はスーパーが少し壊れるだけで済む。許容できる犠牲。これが、この状況での、最後の、そして唯一の解答――)
その発想が、あまりにも遅すぎた。
その判断が、まるで落第点だったと嘲笑うかのように。
ルリカが両腕を壊しながら、ステッキを握りこんだ、その瞬間。
双根が、破壊したミニバンの扉を、まるで巨大なフリスビーのように、凄まじい回転を加えながら投げつけてきた。
ルリカの思考が、加速する。
時が引き伸ばされたかのように、ゆっくりと回転する鉄の塊が、空気を切り裂いて迫ってくる。
耳の圧が半歩だけ沈み、世界の縁が鈍い。
(直撃すれば、死ぬ。だが、避ければ――アレは、地面を削り、確実に火花が散る)
全てを、計算し尽くしたかのような、あまりにも正確な一投。
完璧な、そして、最悪の詰み。
間に合わない。
どう動いても、死ぬ。
(……もし、もっと早く、プライドを捨てて、この『多少の犠牲は厭わない』という次善手を選べていれば……ここまで追い詰められることは、なかったかもしれないのに……)
完璧を求めすぎたが故の、致命的な遅延。
その罰が、今、下される。
彼女の理性が「動くな」と命じるよりも早く、攻撃を回避しようとする、ただの人間としての反射が、その身体を動かしてしまっていた。
再度、ルリカは、汚れたアスファルトを転がるようにして避ける。
(――あ)
咄嗟の、思考を介さない選択。
もし受けていれば、万に一つ、耐えられていたかもしれないという、可能性。
その全てを自ら捨て去った、その愚かな選択を、彼女の上を通り過ぎる鉄の塊が、冷ややかに見下ろしていた。
彼女の世界が、普段の速度に戻る。
激しい金属音。アスファルトに回転しながら激突した扉が、けたたましく、不快な音と共に、まばゆいオレンジ色の火花を漆黒の闇に散らした。
そして、その一筋が、彼女へとつながるガソリン溜まりへと、吸い込まれていく。
――引火。
一瞬だった。
ガソリンの染みは青白い炎の川となり、なすすべなく地面に横たわる彼女の身体へと、蛇のように無慈悲に流れ着いた。
「――っ!」
炎が空気を奪い、呼吸が焦げる。
だが、それでも、ルリカの瞳は濁らなかった。
まだだ。死ななければ、どうにかなる。
彼女は燃え盛る身体で立ち上がり、杖と共に両手を胸の前に掲げた。
(まだ、魔力は――残ってる。構築を……)
炎に包まれた衣装が、まるで怒りを覚えたように反応した。
黒い茨が熱に反応して蠢き、周囲の炎に向かって無意味な反撃を繰り返す。
だが、それは空を切るだけで、何一つ焼かれる現実を止められない。
焦げた花弁のように、次々と黒い灰が崩れ落ちていく。
炎が指先を舐め、皮膚が剥がれ、肉が縮む。
それでも、魔力を一点に収束させる。
「――いけ……!」
ステッキの先端が白熱し、深紅の光が夜を裂いた。
放たれた魔力の矢は、まっすぐに空を切り――まるで力尽きた流れ星のように、あらぬ方向へと逸れて、夜の闇に吸い込まれて消えた。
(……外れた?)
一瞬だけ、彼女の顔に驚愕が浮かぶ。
だがすぐに、それが違うと理解した。
自分の腕が、もう動いていなかった。
炎が筋を固め、指が癒着していた。
手の甲を貫いていた茨と、腕に絡みついた蔓が、溶けかけた杖をかろうじて支えている。
黒く焼け焦げたグリップと、炭化した彼女の手が、もはや区別もつかない。
「――ぁ、あ……あああああああああああああっ!」
声を出した瞬間、喉が焼けた。
炎が髪を舐め、視界を白く染める。
まだ力は残っていたのに。
まだ、正解にたどり着けたはずだったのに。
熱い。痛い。苦しい。
そんな陳腐な言葉では、到底表現できない、絶対的な熱量が、彼女の全てを焼き尽くしていく。
深紅の衣装が、本物の炎に焼かれ、黒く縮れていく。
皮膚が、肉が、焼けていく不快な音と匂い。
これが、彼女の最期だった。
水埼ルリカという、完璧だったはずの少女の、これが結末。
最初で、最後の敗北。
再試験なんて、ない。
黒焦げになり、意識が、命が、最後の灯火が尽きる、その刹那。
彼女の身体そのものが、最後の魔力となった。
ユメの時と同じように。ルリカの意志とは全く関係なく、ただ生命が燃え尽きたという事実だけをトリガーにして発動した、あまりにも受動的な、最期の魔法。
黒焦げになった彼女の胸元から、一本の、燃えるような紅蓮の茨が突き出した。
それは、少女の最後の生命力と、彼女を焼いた炎そのものを養分にして、一気にその花弁を開いた。
燃え盛る巨大な一輪の薔薇が、振り下ろされようとしていた双根の身体を、下から突き上げるように、音もなく貫いた。
怪物は断末魔の叫びを上げる間もなく、内側から侵食する灼熱の棘によって崩壊し、光の塵となった。
後に残されたのは、ボロボロに焼け爛れたアスファルトと、その中心で、最後の残り火のように、静かに燃える一輪の巨大な薔薇だけだった。
やがて、その薔薇も、ひとひらの花弁が灰となって崩れると、全てが静かに消え失せ、そこには何も残らなかった。
少女がいた痕跡も、戦いがあった証拠さえも、まるで最初から何もなかったかのように。
瓦礫の陰から、トリリウムがひょっこりと顔を出して、少女が消えた空虚な空間を、ただじっと見つめていた。
「さて、と。次を探さなきゃね」
トリリウムは静かに目を細めると、軽い足取りでぴょん、と跳ねた。
夜明けの光が、まるで血のように、静かな街を赤く染めていた。
もう二度と開かれることのない、彼女の机の上の、黒い考察ノートが、主の帰りを静かに待ち続けていた。




