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命題と、最初の解法

 水埼(みずさき)ルリカは、いわゆる優等生だった。


 成績は常にトップクラス、運動神経も抜群で、クラス委員もそつなくこなす。


 長い黒髪をきっちりと結び、眼鏡の奥の瞳には、常に淡い光が宿っていた。


 その光は、教室の中で唯一、感情の波に濁らない冷たい湖のようだった。


 教師からの信頼は厚く、生徒からの人望もある。


 その立ち居振る舞いは常に冷静で、どこか大人びていて、感情を大きく乱すことなど、ほとんどなかった。


 彼女の世界は、正解と不正解が明確に分かれた、解きやすい問題集そのものだった。


 退屈ではなかったが、胸を焦がすような熱狂もなかった。


 ただ、決められたレールの上を、誰よりも速く、正確に走り続けているだけ。


 そんな感覚が、心のどこかに、常に澱のように溜まっていた。


 だから、それが現れた時、彼女は他の少女たちのように驚きも、怯えもしなかった。


 ただ、目の前に現れた、想定外の変数を、静かに観察した。


「こんにちは! 君が、水埼ルリカちゃんだね?」


 放課後の生徒会室。一人で作業をしていたルリカの机の上に、音もなく現れた、ぬいぐるみのような生き物。


 トリリウムと名乗ったそれは、彼女に、この世界の裏側で起きているという、突飛な御伽噺を語り始めた。


 世界を蝕む怪物「蝕花(しょっか)」。 それと戦う、選ばれた「魔法少女」。


「君のその強い責任感と、類稀なる才能。それこそが、世界を救う力になる。君は、魔法少女になるために生まれてきたんだよ」


 トリリウムの言葉は、他の誰かに言われたなら、陳腐な勧誘文句にしか聞こえなかっただろう。


 しかし、ルリカの心には、別の響き方をした。


 解きやすい問題集のような、退屈な世界。その外側に、本当に自分の力を試せる、未知の「問題」がある。


 自分の才能を、ただ自分のためでなく、本当に意味のあることのために使える場所がある。


 それは、彼女の心の澱を、初めて洗い流してくれるかもしれない、魅力的な提案だった。


「……わかりました。その話、お受けします」


 ルリカは、眼鏡の位置を静かに直しながら、即答した。


 そのあまりの冷静さと、即決の速さに、トリリウムの方が少しだけ面食らったほどだった。


「もっと、こう、驚いたりとか……いいの?」


「合理的な判断です。世界に危機があり、私にしか解決できないのであれば、私がやる。それだけのことでしょう?」


 その言葉に、トリリウムは満足そうに頷いた。


 これまでのどの少女よりも、落ち着いている。これなら、最高の戦果が期待できる。


 彼は、今回の個体は、当たりであることを確信していた。


 ◇


 その数日後。 警報が、街に鳴り響いた。


 ルリカは、自宅の窓から、遠くの市街地で煙が上がっているのを確認すると、静かに部屋のドアに鍵をかけた。


 彼女の心にあったのは、恐怖ではなかった。

 これから始まる、未知の問題への、冷たい高揚感だった。


 人気のない公園で、トリリウムが彼女の肩に乗る。


「準備はいいね、ルリカ!」


「ええ。いつでも」


(世界を救うという大義。この手で、成し遂げてみせる)


 その、どこまでも真面目で、ヒロイックな祈りが、引き金となった。


 深紅の光が、彼女の身体を包み込む。


 それは、彼女の冷静な思考さえも、一瞬だけ麻痺させるほどに、荘厳で、美しい光景だった。


 光の粒子が、まるで意思を持ったかのように、彼女の身体に寄り添い、戦いのためのドレスを織り上げていく。


 気品のあるショールカラーのジャケット。風を孕んで優雅に舞う、二層のフレアスカート。


 そして、彼女の意志に応えるように、その右手に、黒いステッキが、すっと現れた。


 これこそが、自分の力が求められるべき場所なのだと確信できる姿。


 退屈な日常を打ち破る、非日常への扉。


 ルリカは、ガラスに映る自分の姿に、初めて、心の底からの満足感を覚えた。


 その、刹那。


 チリッ。


 まるで、冷たい氷の針を、神経に直接突き立てられたかのような、鋭く、静かな痛みが右手に走った。


「……っ」


 声には出さなかった。しかし、ルリカの眉が、わずかに顰められる。


 視線を、自分の右手に落とす。


 ステッキを握っていたはずの、白く、形の良い手。

 美しい黒の蔓が、鳥籠のようにその指と手首を捕らえ、その甲の中心を、グリップから伸びた一本の黒い棘が、音もなく、しかし確実に、貫いていた。


 裂けた皮膚の縁から、完璧な球体を描いて、真っ赤な血が一粒だけ、ぷくりと浮かび上がった。


 まるで、精巧な宝飾品の一部であるかのように、ただ静かに、冷徹な事実として、そこにある。


 それは、あまりにも美しく、そして、あまりにも場違いな、深紅の宝石のようだった。


 ルリカは、かすかに息を吸う。


 棘の根元に、逆向きの微細な突起が整然と並んでいるのが見えた。


 引き抜こうとすれば、筋肉の繊維ごと、内側から裂ける構造。


 冷たい理性が、その悪意を瞬時に理解する。


 ――これは、意図的に抜けないように設計されている。


 右手の甲に灯った鮮烈な一点の痛みが、まるでプログラムの初期化信号のように彼女の神経へと侵入していく。


 ルリカは、眉間に皺を寄せたまま、痛みの波形に合わせて脈拍が加速していくのを冷静にカウントしていた。


(……これが、代償。聞いていない情報だ)


 心の中で、トリリウムへの詰問が渦巻く。


 ルリカは、わずかに首を巡らせ、肩の上のトリリウムを見た。


 その瞳に怒気はない。ただ、事実の確認を求めるような、無言の問いが宿っていた。


 しかし、マスコットはその視線に気づくこともなく、いつもの調子で声を張り上げる。


「ルリカ! 敵はすぐそこだ!」


 ルリカは、短く息を吐き、視線を切る。


 一度だけ強く目を閉じ、乱れた呼吸を整えた。


 そして、目を開いた時には、彼女の瞳からすべての動揺は消え失せていた。


 痛みはある。だが、それはそれ。今は、目の前の「問題」を解決することが最優先だ。


 彼女は、まるで最初からそうであったかのように、痛みを無視し、戦場へと向かって駆け出した。


 現場は、想像以上の惨状だった。


 硬い蕾のような怪物――殻花シェル・ブロッサムが、バスを軽々と持ち上げ、玩具のように投げ捨てている。


 アスファルトは砕け、信号機はへし折れ、逃げ遅れた人々が悲鳴を上げていた。


 ルリカは、その光景を冷静に分析した。


(巨体だが、動きは鈍重。攻撃は、大振りな触手による叩きつけがメイン。外殻は硬質だが、関節部と思わしき可動域は、比較的装甲が薄いように見える)


「トリリウム、攻撃方法を」


 走りながら、ルリカは短く問う。


「ルリカ! ステッキに――力を込めて、魔力を!」


 ルリカは、視線を一度だけ自分の手に落とした。


 黒い茎――蔓の浮彫が巻かれたグリップ。 それはまるで薔薇そのもの。


 大ぶりの鉤が一つ、続いて米粒より小さな棘がいくつか、また大ぶりが一つ――大小が規則的に交互に。


 しかも各棘の根元には、花弁の鋸歯のような微細な返しがびっしりと生えていた。


 握れば、大きな鉤がまず掌紋を割り、小さな棘の列がその裂け目を櫛で梳くように内側へ押し広げる。


 さらに力を足せば、返しが筋膜を噛み、腱が引かれ、爪の下に血が溜まる。


 美しい花を咲かせるには、根が深く肉を裂かねばならない。そういう摂理で、これは作られている。


(了解。花の『顕現』には、根となる肉体の『破壊』が必須。合理的な設計だ)


 彼女は、迷わず握り込んだ。


「う……ぐ……っ!」


 大きな鉤が肉の奥で身を返し、列になった小棘が関節の内側を擦っていく。


 掌の中央が紙を裂かれるように開き、血がグリップの溝を満たす。


 握るほどに、離せなくなる。 理知はそれを告げたが、指はさらに閉じた。


(入力最大化。今はそれでいい)


 白い閃きが視界をさらい、次の瞬間、魔力の矢が唸りを上げて放たれた。


 狙い通り、殻花の装甲が薄い関節部を正確に貫く。


「ギィッ!?」


 殻花が、初めて苦悶の声を上げる。


 しかし、ダメージは浅い。致命傷には程遠い。


(火力が足りない。もっと、深く握る必要がある。 だが、これ以上は……)


 指がもう曲がらない。


 ステッキを握る手の皮膚は、裂け、棘の間に肉片がこびりついていた。


 これ以上、握り込むことを理性が拒絶する。しかし、棘はもはや指を解放してはくれない。


 力を足せば、手は壊れる。

 力を足さねば、私が壊される。


 選択の余地なき、二つの破滅。


 思考している間に、殻花の巨大な触手が、ルリカの頭上へと振り下ろされた。


 避けきれない。


 ルリカは、咄嗟に腕を交差させ、衝撃に備えた。


 その、刹那。


 ――ギチッ!


 鈍い音と共に、ルリカの身体を打ったはずの触手が、逆に動きを止めていた。


 恐る恐る目を開けると、殴られた腕の衣装から、無数の黒い茨が瞬時に伸び、触手の装甲の隙間に突き刺さっている。


 黒い茨が、彼女の腕から噴き出すように咲いた。


 打たれた衝撃を、そのまま花に変えて、敵へ突き立てる。


 それは防御でも攻撃でもない――痛みに咲く花の反応。


 茨は敵の内部で花開くように破裂し、小さな爆発を起こした。


 殻花が、先ほどとは比べ物にならない苦悶の叫びを上げ、後ずさる。


 ルリカは、吹き飛ばされた衝撃で咳き込みながらも、その現象を冷静に観察していた。


(……痛みを受けた瞬間、茨が咲く。痛みの総量に比例して、出力が上がる。……理にかなってる)


 被弾を入力とするその反応は、能動で刻む痛みとは異なり、瞬時にして最大の効率を返している。


 ルリカは咳き込みながらも、次の一手を冷静に計算した。


 殻花は動きを止め、今こそ装甲の継ぎ目が露出している。


 出力を一点に集中すれば、終わる。


 ルリカは、歯を食いしばりながら、もう片方の手も犠牲にする覚悟で、両手でステッキを強く、強く握りしめる。


 鋭い痛みが、指の一本一本を貫く。


 茨の棘が新たに食い込み、清潔な白だった左手が、瞬く間に赤く染まっていく。


 その赤が、視界に広がる白光の中で、奇妙に美しく見えた。


(――痛みを制御するな。解放しろ。これが、この武器の“出力式”だ)


 閃光が弾けた。


 ステッキの先端から放たれた魔力の矢が、一直線に殻花の関節部を貫き、内側から爆ぜるように花を咲かせた。


 音もなく、殻花は崩れ落ちた。


 ルリカは、肩で息をしながら、両手を見下ろした。


 棘に穿たれ、血で濡れた指の隙間から、かすかに光が漏れている。


 それは痛みの残滓なのか、勝利の証なのか――彼女自身にも、もう区別がつかなかった。


 戦闘が終わり、静寂が戻る。


 路地裏で変身を解いたルリカの手は、血に濡れ、無残なほどに傷ついていた。


 しかし――それはすぐに変化し始めた。


 裂けた皮膚の縁から、茨のような模様が淡く光を放ち、瞬く間にその傷を塞いでいく。


 再生というより、エラーを修正するパッチのように、傷が上書きされていく。


 痛みは消えたが、その代わり、手の甲には黒い細い痕が、バグの痕跡のように刻印として残った。


 彼女は、その傷跡をしばらく見つめていた。


 それは、生体的な異常でも、魔法的な祝福でもない。


 単なる、システムが正常に作動した結果だ。


「なるほど……こうやって回復するのね」


 小さく呟いた声には、驚きも安堵もなかった。


 ただ、新しい実験のデータを確認するような、淡々とした響きだけが残る。


 彼女は手を握り、開く。関節の動きは正常。


 だが、内側に残る微かな熱と違和感だけは、まだそこにあった。


 痛み。 反応。 出力。 代償。


 そのすべてが、彼女の中でひとつの方程式として結ばれていく。


 ルリカの世界に現れた、最も難解で、最も解きがいのある「問題」。


 その最初の問いを、彼女は、血と光と痛みを代償に、確かにクリアしたのだった。

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