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平和と、かすかな愛情 (後)

 

 数日後。


 監視の目が緩んだ隙を見て、彼女は、その温かい檻から音もなく抜け出した。


 そして、はっきりと理解した。


 この程度の「悪いこと」では、この程度の、生温い「保護」しか、与えられないのだと。


 彼女は、より大きな「罰」を求めて、行動をエスカレートさせた。


 夜の歓楽街。その、最も薄暗く、暴力の匂いが染み付いた路地。


 数人の、柄の悪い男たちが、壁に寄りかかり、タバコをふかしていた。


 アザミは、その男たちの集団の、すぐ脇を、何も見ていないかのように、虚ろな足取りで、通り過ぎようとした。


 そして、リーダー格らしき男の、すぐ真横を通り過ぎる、その瞬間。


 彼女は、わざと、よろめくようにして、その肩に、ドン、と強くぶつかった。


「……あ?」


 男が、タバコを口から離し、凄むような声を上げる。


「……いってえな、このガキ……どこ見て歩いてやがんだ」


 アザミは、ゆっくりと、その男の方を振り返った。


 そして、その長い前髪の隙間から、男の目をじっと見つめた。


 その瞳には、恐怖も、反省も、何もない。


 ただ、これから何が起きるのかを、品定めするかのような、冷たい光だけが宿っていた。


「……おい、謝れや、ガキ」


 男の声に、苛立ちの色が滲む。


 その、威圧的な言葉を聞いて。


 アザミの口元に、微かな笑みが浮かんだ。


 それは、まるで壊れた人形が浮かべるような、どこか歪で、不気味な笑みだった。


 彼女は、その笑みを浮かべたまま、まるで歌うかのように、抑揚のない声で言った。


「ごめんなさぁい」


 人を食った、わざとらしい謝罪の言葉。


 そして、その瞳に宿る、自分たちを完全に見下し、何かを期待しているかのような不気味な光。


 それが、男たちの、チンピラとしての、ちっぽけなプライドの最後の糸をぷつりと断ち切った。


「……てめえ、なめてんのか……?」


 男の拳が、振り上げられる。


 今度こそ。


 そう、思った。


 しかし、その結末は、彼女が望んだものとは、全く違っていた。


 男たちが、汚い言葉と共に、彼女を取り囲む。


 腕を掴まれ、壁に押し付けられる。


 暴力。罵倒。


 アザミは、ついに求めていた「罰」が与えられると、期待に身を震わせた。


 しかし、数分後。


 ゴミのように路地に打ち捨てられたアザミは、血を流しながらも、その瞳に、深い、深い失望と困惑の色を浮かべていた。


 痛かった。


 確かに、殴られ、蹴られ、身体は痛かった。


 でも、その痛みは、ただ、それだけだった。


 かつて、母が、泣きながら、震える手で、自分の頬を打った、あの熱い痛みとは、似ても似つかない。


 それは、蝕花が与えてくれた、あの魂を揺さぶり、肉体を容赦なく壊すほどの衝撃にくらべれば強くもない。


 耐えようと思えば、いくらでも耐えられる。


(……違う)


 アザミは、はっきりと理解した。


 痛ければいい、というものでは、ない。


 この男たちの暴力には、何の「意味」もなかった。


 そこにあるのは、ただ、自分たちの苛立ちを、弱い者へとぶつけるだけの、空っぽの感情。


「あなたのため」という、歪んだ響きも。


「悪い子だから」という、罰の理由も。


「愛しているから」という、温かい手触りも。


 その、どれもが、なかった。


 これは、お仕置きなんかじゃない。


 これは、愛なんかじゃない。


 ただ、自分を満たすためだけの、一方的な暴力。


 その事実は、アザミにとって、殴られる痛みそのものよりも、ずっと、ずっと耐え難い「侮辱」だった。


 彼女の行為は、彼らにとって、意味のある「罰」を与えるに値しない、ただの虫けらの戯れとして、処理されてしまったのだ。


 彼女は、はっきりと理解した。


 この程度の「悪いこと」では、この程度の、意味のない暴力しか、与えられないのだと。


 ならば。


 ならば、もっと、大きな。


 誰もが無視できず、誰もが、「世界のため」という大義名分を掲げて、自分を「罰せざるを得ない」くらいの。


 最大の、悪いことを、すればいい。


 アザミは、ふらりと立ち上がった。


 その瞳には、かつてないほどに、暗く、そして純粋な、狂気の光が宿っていた。


 彼女が探しているのは、もう、偶然現れる怪物の罰(愛)ではない。


 この無関心な世界そのものから、無理やりにでも、本物の愛を搾り取るための、次なる舞台だった。


 彼女の顔には、もう、失望の色はない。


 静かな、底知れない決意だけが、瞳の底に浮かんでいた。

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