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平和と、かすかな愛情 (前)

 

 二律背反アンチノミーという、最高の玩具を自らの手で壊してしまってから、アザミの世界は、再び、あの少年院にいた頃のような、色のない静寂へと沈んでいった。


 あれほど強烈な愛を一度知ってしまった彼女にとって、ありふれた蝕花たちは物足りない存在であった。


 それらですら、普通の少女が魔法少女の命を奪うのに十分なものだったとしても。


 その後数週間にわたって現れた数体の怪物は、アザミの渇望を満たすどころか、むしろ彼女を苛立たせるだけの、邪魔な存在でしかなかった。


 なぜ、それだけしかしてくれないの。


 攻撃を受けて、不満そうにしながら。


 彼女は、まるで道端の石ころでも蹴飛ばすかのように、ただただ、処理していった。


 トリリウムが見てきた中でも、アザミは最高の魔法少女としてその記録を更新し続けていた。


 最小限の稼働で、最大限の戦果を上げる、理想の魔法少女。


 しかし、その強さは、皮肉にも彼女自身の首を、そしてこの区域の平和そのものを、ゆっくりと絞めていくことになる。


 ある日を境に、敵がぷっつりと現れなくなったのだ。


 アザミが強すぎるあまりに、渇望するがあまりに、早く、効率的な処理によって蝕花が再発生するのに時間がかかるようになっていた。


 街は平和だった。


 魔法少女が、なるべく早く動いてくれていたから。


 渇望で苦しむアザミにとっては皮肉でしかない平和。


 少年院という名の管理された檻から抜け出し、より広大で、より冷徹な、無関心という名の檻の中へと移り住んだと感じるアザミ。


 彼女は、駅前の雑踏の片隅で、ぼんやりと座っていた。


 目の前を、何千、何万という人々が、川の流れのように通り過ぎていく。


 誰も、汚れたワンピースをまとった、小さな少女のことなど気にも留めない。


 時折、哀れみの視線を向ける者はいても、誰も彼女を本気で見てはくれなかった。


「ねえ、トリリウム」


 路地裏で膝を抱えながら、アザミは震える声で尋ねた。


「私、何か悪いことした……? だから、もう誰も愛してくれないの……?」


「いや、君は完璧にやり遂げたんだよ。この街は、君のおかげで平和になったんだ」


 トリリウムの言葉は、何の慰めにもならなかった。平和など彼女は望んでいない。


 彼女が求めていたものは、愛(痛み)。


 渇望は、やて、彼女に行動を起こさせた。


 この、冷たい無関心地獄から抜け出すために。誰でもいい、自分という存在を、認識してもらうために。


 彼女は、コンビニエンスストアに入った。


 そのガラスのドアに映る自分の姿は、まるで幽霊のように、痩せて色褪せていた。


 彼女は、パンが並んだ棚の前で、わざと、店員の視線が自分に向けられるのを待った。


 そして、目が合った、その瞬間。


 ゆっくりと、しかし大胆に、焼きたてのメロンパンを一つ、ワンピースのポケットに入れた。


 万引き。罰せられるべき、明確な「悪いこと」。


 店員が、驚いた顔で、こちらに駆け寄ってくる。


「こら、お嬢ちゃん! 何してるの!」


 腕を掴まれる。


 アザミは、抵抗しなかった。むしろ、その瞬間を、待ち望んでいた。


(……やっと、見てくれた)


 事務所の裏へと連れて行かれ、説教が始まる。


「どうして、こんなことしたの? お腹がすいてるなら、そう言えばいいじゃない」


 店長らしき男が、怒るでもなく、ただ、困ったような、哀れむような目で、彼女を見つめている。


 アザミは、何も答えなかった。


 ついたと思った色が失われていく。


 なぜ、愛してくれないのだろうか。


 やがて、店の外から、パトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。


 警察。


 公的な「罰」を与えてくれる、存在。


 彼女の心は、ほんの少しだけ、色を取り戻した。


 しかし。


 パトカーに乗せられ、事情聴取を受け、彼女が最終的に連れて行かれたのは、警察署の冷たい留置所ではなく、児童相談所の温かい保護室だった。


「ご両親は?」「お家はどこ?」「何か、嫌なことでもあったのかい?」


 職員たちは、代わる代わる、優しい言葉を投げかけてくる。


 誰も、彼女を罰してはくれなかった。


 ただ、可哀想な保護対象として、傷ついた少女扱うだけ。


 当たり前で、当然のような対応。


 けれどアザミの望まない、正しい、どこまでも人道的な「優しさ」が、彼女の心をじわじわと蝕んでいった。

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