痛みと、止まらない渇望(後)
群花との戦闘から数週間。
アザミは、夜の街をテリトリーとする、静かな捕食者のように変貌していた。
彼女は、次の愛を、ただひたすらに待ち望んでいた。
自分を罰し、その存在を肯定してくれる、暖かな痛みを。
夜のコンビナート地帯。
入り組んだパイプラインが月明かりを浴びて銀色に光る、無機質な鉄の迷宮。
その中心で、静かに佇んでいたのは、巨大で、どこか歪な花。
その花弁は、まるで黒曜石のように、鈍い光を放っている。
そして、何よりも異様なのは、その花の中心だった。
表側には、苦悶の表情を浮かべた、筋骨隆々の男性の上半身が。
裏側には、恍惚とした表情で目を閉じた、華奢な女性の上半身が。
まるで、悪趣味な彫刻のように、二つの人体が背中合わせに張り付けられている。
攻撃と回復。苦痛と悦楽。
その、相反する二つの概念を一つの身体に宿した、忌まわしき「二律背反」とでもいうべき存在。
「アザミ、来たよ! こいつは……!」
トリリウムが警告の言葉を言い終える前に、アザミの身体は深紅の光に包まれていた。
彼女の鼻腔が、これまでとは比較にならないほど、濃密な愛(罰)の匂いを嗅ぎ取っていたからだ。
二律背反は、魔法少女のセオリーを破壊する敵だ。
表側の「苦悶」の男が、鋭い爪で攻撃を仕掛けてくる。
その攻撃によって魔法少女が受けたダメージは、即座に、裏側の「恍惚」の女へと転送される。
そして、女は、そのダメージを、自らを癒す快感へと変換し、一瞬で治癒してしまう。
それは、無限回復ループという名の、完璧な絶望。
しかし、アザミは分析などしなかった。彼女は、ただ、最も強く自分を殴ってくれそうな、表側の「苦悶」の男へと、ゆっくりと歩み寄っていった。
男が、獣のような俊敏さで、その巨大な腕を振り下ろす。
ドンッ!
凄まじい衝撃がアザミの身体を襲う。しかし、彼女は恍惚の表情でそれを受け止めた。
「……ぁ……」
その瞬間、アザミの衣装から突き出した茨が、セオリー通り男の身体を貫いた。
しかし、その身体に刻まれた傷は、淡い光と共に一瞬で塞がってしまった。
トリリウムは、あまりにも規格外な、イレギュラーな蝕花に戦慄した。
アザミですら、かなう相手ではないと、最高の魔法少女を失ってしまうかもしれないという心配。
しかし、トリリウムの心配をよそに、アザミは、目を見開いていた。
その瞳に宿っていたのは、絶望ではなかった。
困惑と、そして、純粋な好奇心だった。
彼女は、見ていたのだ。
自分が与えたはずの「罰」が、裏側の女の身体を駆け巡り、それが「快感(回復)」へと変わっていく、その一部始終を。
そして、その快感を糧にして、表側の男が再び、自分を罰するための力を取り戻していく、その悍ましくも美しいサイクルを。
(……すごい)
アザミは、うっとりとしたため息をついた。
これは、なんだろう。
私が、殴られる。気持ちいい。
その気持ちよさが、相手を貫く。
その貫かれた感覚が、相手の傷を癒す、気持ちよさに変わる。
そして、気持ちよくなった相手が、また、私を殴ってくれる。
それは、アザミにとって、永遠に終わらない、完璧な「愛の確認作業」だった。
壊れることのない、最高の玩具。
自分だけではなく、相手もまた、悦びを感じてくれる、理想的な関係。
それは、彼女が、心の奥底で、ずっと、ずっと、渇望していた、「相互的な愛の形」そのものだったのだ。
「……見つけた」
アザミの唇から、恍惚とした呟きが漏れた。
彼女は、再び、男へと歩み寄っていく。
その足取りには、もう、何の迷いもなかった。
ただ、これから始まる無限の饗宴への純粋な期待だけが満ちていた。
男が、再び、その巨大な腕を振り下ろす。
アザミは、その腕を、まるで恋人の抱擁を待つかのように、静かに、そして、嬉しそうに、受け入れた。
コンビナート地帯に、無機質な破壊音だけが、延々と響き渡る。
それは、もはや戦闘と呼べるようなものではなかった。
ただ、一方的な暴力の饗宴。
男が、殴る。蹴る。叩きつける。
そのたびに、アザミの身体は、木の葉のように舞い、鉄骨に叩きつけられ、コンクリートの上を引きずられる。
深紅のドレスはすぐに原型を留めないほどに引き裂かれ、そこから覗く白い肌は無数の切り傷や痣、そして、骨が折れ、肉が裂けた、おびただしい数の傷で赤黒く染まっていく。
攻撃を受けるたびに、口の端から、細い血の筋が伝い、やがて、咳き込むように赤い血の塊を吐き出した。
―――しかし、アザミは、笑っていた。
折れた腕も、砕けた足も、裂けた腹も、その全てが、彼女にとっては、自分が愛されているという実感を、より鮮明にするための、至上のスパイスでしかなかった。
痛みが増せば増すほど、傷が深くなればなるほど、彼女の心は満たされていく。
その強力な攻撃に、衣装による反撃を作動はしているが、蝕花のダメージはすぐに回復されてしまう。
彼女の身体は、回復などしない。
無意識に長く愛されるために、魔法の力で身体能力を上げて耐えて、壊れたまま無理やりに動いていただけ。
その、軋みを上げる身体の悲鳴すらも、彼女にとっては悦びの歌声だった。
二律背反は、混乱した。
目の前の魔法少女は、ダメージを与えても与えても、悦びの声を上げるだけ。ボロボロになっていくその身体とは裏腹に、その瞳の光は、ますます狂気的な輝きを増していく。
殺意も、敵意も、この少女には届かない。自分たちの暴力は、ただ、この少女を喜ばせるための奉仕と化していた。
攻撃する「苦悶」の男。
それを快感として受け止め壊れていきながら、衣装が反撃をするアザミ。
アザミからのダメージを変換し、男を癒す、恍惚の女。
そこには、あまりにも歪で、閉じた、三者の快楽のトライアングルが完成していた。
もはや、それは戦闘ではなかった。
ただ、罰を与えられ、愛されたい少女と、その願いを叶え続けるだけの歪んだ共依存のダンス。
しかし、その永遠に続くかと思われた饗宴にもやがて終わりは訪れる。
限界が来たのは、二律背反の方だった。
攻撃を続ける「苦悶」の男の腕が、徐々に、その勢いを失っていく。
精神が摩耗しきってしまったのように。
「苦悶」を与えられないことが、存在意義を失ったかというように。
目の前の少女は、どれだけ殴っても、壊しても、決して死なず、ただ嬉しそうに次の暴力を待っている。
その底なしの狂気に、攻撃する側の精神が、存在意義が耐えきれなくなったのだ。
やがて、その動きは完全に止まった。
静寂。
アザミは、ぴたりと動かなくなった敵を、不思議そうに見つめていた。
折れた腕をだらりと垂らし、砕けた足を引きずりながら、彼女は、ゆっくりと敵へと近づいていく。
そして、その口から、純粋な疑問の言葉が漏れた。
「……あれ……?」
「……もう、してくれないの……?」
その声は、大好きなおもちゃが、急に動かなくなったのを悲しむ子供のようだった。
彼女は、項垂れた男の前に、ゆっくりと歩み寄る。その足取りは、おぼつかなかった。
彼女の身体は、もはや満身創痍だった。
元の肌の色が見える部分のほうが少なく、折れた肋骨が、呼吸のたびに鈍い痛みを主張し、全身の切り傷からは、絶えず血が流れ続けている。
普通の魔法少女であれば、立っていることすら不思議なほどの深刻なダメージですら、彼女は悦びの余韻として受け入れていた。
「ねえ。どうして……?」
彼女は、男の顔を、覗き込むようにして尋ねた。
「私、何か、悪いことした……?」
「もう……私を、愛して、くれないの?」
もちろん、答えはない。
二律背反は、ただの動かない、巨大な花のオブジェと化していた。
その沈黙が、アザミの中で、決定的な「拒絶」へと変わった。
愛の供給が、止まる。
その、耐え難い恐怖が、初めて、彼女に自らの意志で攻撃するという選択をさせた。
「……そっか」
アザミは、静かにうつむいた。その長い前髪が、彼女の表情を完全に隠してしまう。
そして、ゆっくりと、自分の右手を持ち上げた。
甲を貫く棘が、月明かりに濡れて、鈍く光る。
彼女は、そのステッキを、ゆっくりと、しかし、これまでにないほど、強く、握りしめた。
「いい子、じゃないなら……いらないよね……?」
声の質が、変わる。
その声は、かつて、大事にしていた壊れた人形を、ゴミ箱へと捨てられた日に、彼女自身が呟かれた言葉と、全く同じ響きを持っていた。
次の瞬間、アザミのステッキから、深紅の魔力の鞭が迸った。
それは、ルリカのような洗練されたものではない。
ただ、癇癪を起こした子供が、飽きてしまった玩具を叩き壊すような、純粋で、制御されていない暴力の塊。
魔力の鞭は、動かなくなった二律背反の、男の身体を、女の身体を、花弁を、茎を、何度も、何度も、滅茶苦茶に打ち据えた。
その一撃一撃が、アザミ自身の掌を、グリップの棘で、ズタズタに引き裂いていく。
だが、その痛みは、もはや彼女にとって何の悦びももたらさなかった。
ただ、裏切れたことへの腹いせ。
愛してくれなくなった相手への一方的な八つ当たり。
男の動きが止まったと同時に、女もその活動を徐々に止めていく。
変換されても受け取られないエネルギーが、行き場をなくして、回復をすることを許さない。
徐々に、徐々に、男のシルエットが、女のシルエットが削れていく。
やがて、原型を留めなくなった怪物の亡骸は、光の塵となって、静かに消えていった。
後に残されたのは、静寂と、そして、ズタズタになった自分の右手を見下ろし、その虚しさに、ただ呆然と立ち尽くす、右手以上にボロボロになった、満身創痍の一人の少女の姿だけだった。
トリリウムは、その光景を、戦慄と共に観測していた。
この少女は、敵を倒したのではない。
愛してくれなくなった玩具を、ただ、壊しただけだった。




