痛みと、止まらない渇望(前)
少年院とから抜け出したアザミが、あてもなく夜の街を彷徨い始めて数日が経った。
彼女は路地裏の片隅で、段ボールを敷いて眠り、誰かが捨てた食べ物で飢えをしのいでいた。
しかし、その瞳には何の絶望もなかった。
彼女は、獲物を待つ獣のように、ただひたすらに、次の愛の訪れを待っていた。
「ねえ、トリリウム」
膝の上で丸くなるマスコットに、アザミは静かに話しかける。
その声は、次の食事をねだる子供のように純粋な響きを持っていた。
「次は、まだ?」
「……もうすぐだと思うよ。君の魔力に引き寄せられて、きっと現れる」
トリリウムは、複雑な思いで答えた。
アザミは、今までで最高の戦闘効率を叩き出す、理想の魔法少女だが、精神の歪みはいつ暴発してもおかしくない、あまりにも危険な爆弾でもあった。
その時だった。
繁華街のネオンが、一斉にショートしたかのように明滅し、人々の悲鳴が遠雷のように響き渡った。
アスファルトを突き破り、無数の小さな蕾が集まった怪物、群花の群れが出現した。
トリリウムが目を見開く、今までの群花に比べても多い。
「来た……!」
アザミの目がギラリと光った。
彼女は立ち上がり、ゆっくりと群れの中心へと歩いていく。
「アザミ! 気を付けるんだ!」
人々が異変から逃れようとパニックに陥って逃げ惑う、その濁流に一人だけ逆行して。
変身の光が、路地裏を深紅に染める。
棘が甲を貫く深い感覚に、アザミは再び、甘い息を漏らした。
愛を与えてくれるそのステッキに、気に入ったぬいぐるみにするように、甘い表情で頬ずりをする。
整った綺麗な顔に、赤く、線が引かれていく。
群花たちは、目の前に現れた、自ら死地へと歩み寄る奇妙な獲物へと、一斉に殺到する。
鋭い牙、爪、棘を持った無数の小さな身体が、アザミの身体を、まるで黒い波のように覆い尽くしていく。
小さな暴力の嵐。
細かい肉体な痛みは勿論、その小さなものに、まるで虫に群がられる様は精神的にも、常人ではもちろん、魔法少女としても正常でいられるものではない。
「……はは……あははは……!」
しかし、その暴力の中から聞こえるのは、アザミの静かな笑い声。
無数の小さな痛みが、全身の皮膚を、肉を、神経を、絶え間なく、しかし、決して致命傷には至らないレベルで、刺激し続ける。
それは彼女にとって、何よりも甘美な愛撫だった。
かつて、母に何度も、何度も、叩かれた、あの夜のように。
一つ一つの痛みは小さくても、その全てが、自分という存在を肯定してくれているようで、たまらなく心地よかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私が、悪い子だから……もっと、ちゃんとするから……!」
虚ろな瞳で、彼女は虚空に向かって呟く。
その言葉は、果たして誰に向けられたものだったのか。
自分を罰している、目の前の怪物たちか。
あるいは、その罰を、悦びとして受け入れている、自分自身か。
その境界は、彼女の中では、とうに溶けてなくなっていた。
罰する者と、罰される者。その両者が一体となって初めて、彼女が求める愛は完成するのだと、彼女は本能で理解していた。
「ちゃんと、いい子に、するから、倒すから……!」
彼女の身体から溢れ出した、悦びの奔流を表すかのように、深紅の魔法少女の衣装から無数の茨が噴き出した。
茨の嵐は、アザミに群がっていた群花を内側から串刺しにし、一瞬で殲滅した。
皮肉にも、いい子にならなければならない、敵は倒さなければいけないというその感情が、群花の攻撃が弱く、じっくりとしたものになる前に、殲滅させてしまった。
「あれ……?」
光の粒子になっていくその群れを見ながら、拍子抜けしたかのようなアザミの声が漏れる。
戦闘後、変身を解いたアザミは、無傷の身体でその場に膝をついた。
彼女にとって、戦闘は世界を救うための行為ではない。
ただ、自分がここにいていいのだと、誰かに罰を与えられることで、自分が愛されているかを確認する作業でしかなかった。
そして罰に対して、自分のやることを、魔法少女としての仕事をする。
それだけの事だった。
「ねえ、トリリウム」
アザミは、恍惚とした表情のまま、膝の上のマスコットを見つめた。
「私、ちゃんと、いい子にしてるでしょう?」
その問いに、トリリウムは何も答えられなかった。




