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空虚と、満たす愛 (後)

 

 遠くのサイレンが近づいてくる。


 施設の職員たちが廊下を走り抜け、窓の外では赤と青の光が交互に明滅していた。


 蝕花が現れたのだ。


「アザミ! 来たよ、君の出番だ!」


 トリリウムの声は高揚していた。


 この無表情な少女が、どんな戦いを見せるのかという、期待と興味の入り混じった響き。


「はい」


 アザミは静かに立ち上がり、窓の向こうの混乱した街並みを見下ろした。


 その瞳には、波ひとつ立たない湖のような無感情があった。


「心の中で願うんだ。『世界を救いたい』って!」


 トリリウムが促す。


 だがアザミは、そのような願いは、心に浮かべることがなかった。


 ただ、先ほどの彼の言葉を繰り返す。


(……チクっとする。結構、痛いかも……)


 エゴでしかない、他人のことなど考えていない、魔法少女からのイメージからは、かけ離れた欲望。


 その歪んだ祈りが、変身の引き金になった。


 深紅の光がアザミの体を包み込む。


 薔薇を模したジャケット、重なり合うスカート、編み上げブーツ。


 完璧な魔法少女の姿が形を取っていく。


 最後に、右手へ黒い蔓のステッキが現れ、グリップに隠された一本の棘が、白い手の甲を音もなく貫いた。


 トリリウムは思わず身を固くした。


 しかし次に聞こえたのは悲鳴ではなかった。


 トリリウムは思わず身を固くした。


 しかし次に聞こえたのは悲鳴ではなかった。


「……あ……ぁ……」


 苦痛に歪むはずの唇から漏れたのは、蕩けるように甘く、熱い息遣いだった。


 痛みを与えられたアザミの身体が、歓喜するように小さく震える。


 その口元に、微かな、しかし確かに、悦びの笑みが浮かんでいた。


 彼女は、自分の手を貫く茨を、まるで愛しいものを見つめるかのように見つめ、そっと呟いた。


「……あったかい……」


 かつて母に叩かれたときの、頬の熱さに似ていた。


 ――「あなたのためなのよ」と言われた罰の温度。


 ――「その痛みが力になるんだよ」と囁いたトリリウムの声。


 この痛みは、自分に「魔法少女」という役割を与えてくれた、最初の意味のある愛。


 アザミはその痛みによって、自分がこの世界に「ここにいていい」と、許されたような気がした。


 その時、施設の壁が轟音と共に砕け、そこに現れたのは、硬い外殻を持つ怪物、殻花シェル・ブロッサム


 怪物は、最も近くにいた魔力の源――アザミへと、その巨大な触手を振り下ろした。


「アザミ、危ない!」


 トリリウムの叫びが響く。


 だがアザミは動かない。


 彼女は、誰かに抱かれるのを待つように目を閉じ、怪物の影の中へと身を晒した。


 鈍い衝撃音。


 身体がくの字に折れ、瓦礫に叩きつけられる。


 だが、苦痛の叫びはない。


「……もっと……」


 瓦礫に叩きつけられた衝撃で、左腕の骨がきしむ音がした。


 しかし、彼女はその痛みすらも、悦びとして受け入れてしまう。


 魔法少女の衣服から伸びる無数の黒い茨が伸びていく。


 その渇望に応えるかのように、殻花の装甲の隙間に突き刺さり、破裂する。


 内側から破裂させられた怪物は、苦悶の声を上げて後ずさる。


「……信じられない……」


 トリリウムは、その光景を戦慄と共に観測していた。


 これはなんだ?


 普通の少女なら、一度の被弾で恐怖に心が折れるはずだ。


 痛みで、次の行動が鈍るはずだ。


 しかし、この少女は違う。


 骨がきしむほどの衝撃を、まるで心地よいマッサージのように受け流し、怯むどころか、さらに強い刺激を求めて瞳を輝かせている。


 痛みを恐れない。


 受け入れる。


 アザミの異常な精神性が、彼女の身体能力を、他の魔法少女を、遥かに超えた領域へと引き上げていた。


 アザミは、フラフラと立ち上がった。


 虚ろだった瞳に、今は獲物を見つけた獣のような光が宿っていた。


(この痛みは、ご褒美。ちゃんと戦えている証)


「……もっと、いい子にしなきゃ……」


 彼女は歩き出した。


 怪物の第二撃、第三撃を受けながら。


 殴られるたび、斬られるたび、恍惚とした息を漏らす。


 ステッキを持つ右手は、その衝撃で何度もグリップを握りしめるたびに、無数の小さな棘で掌がズタズタに引き裂かれていく。


 だが、その痛みすら、彼女にとっては、自分が正しく戦えているという、確かな証でしかなかった。


 衣装が反応し、魔法少女の使命を忠実に果たすための自動反撃――反撃の茨が奔流となって、殻花へと襲い掛かる。


 痛みが攻撃へと変換され、怪物の外殻を無造作に壊していく。


 やがて、怪物は完全に沈黙し、光の塵となって消えた。


 後に残されたのは、半壊した施設と、深紅の衣装をボロボロにされながらも、荒い息をつき、満ち足りた表情で佇むアザミの姿だけだった。


 変身が解け、地味なワンピース姿へ戻る。


 アザミは、騒がしいサイレンにも職員の声にも反応せず、壊れた壁の向こうへ歩き出した。


 まるで、暖かい愛(しつけ)を与えてくれる、新しい主人を探す迷い犬のように。


 彼女は、二度と戻るつもりのない檻を抜け出した。


 これから始まる、最高の《痛み()》に満ちた、新しい日常を求めて。


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