表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/29

空虚と、満たす愛 (前)

 その部屋は、消毒液の匂いがした。


 白い壁。


 白いベッド。


 冷たいリノリウムの床。


 窓の外には、高い塀と、よく手入れされた芝生が広がっている。


 風も、人の声もない。


 厚い壁に音が吸い込まれ、世界はいつも、耳の奥が痛くなるほど静かだった。


 ここは医療少年院。


 朝霧(あさぎり)アザミの世界は、色も温度も薄く、ただ整えられた空間の中にあった。


 彼女は、窓際の椅子に座り、外を眺めていた。

 何かを待つでも、考えるでもなく、ただそこにいた。


 長い前髪が顔に影を落とし、その表情を窺い知ることは難しい。時折、規則正しく瞬きをする様は、精巧に作られた人形を思わせた。

 かつて、この場所に来る前。彼女の世界には、「痛み」があった。


 それは、父の拳であり、母の平手打ちだった。


『お前がいい子にしていないからだ』

『愛しているから、叩くのよ』


 その罰だけが、彼女に「ここにいる」という実感を与えていた。


 痛みこそが、唯一の温もりだった。


 だが、あの夜を境に、その痛みは消えた。


 今の彼女は、誰にも触れられず、誰の声も届かない場所で、


 止まった時間の中に座っている。


 整いすぎた空気。


 そこでは何も腐らず、何も育たない。


 彼女はただ、そこにいた。


 呼吸をすることさえ、意味を失ったように。


 だから、それが現れたときも、心は一ミリも動かなかった。


「こんにちは! 君が、朝霧アザミちゃんだね?」


 膝の上に、ぽすん、と音もなくフェルト生地のマスコットが落ちてきた。


 大きなガラス玉の瞳、刺繍されたにこやかな口元。


 その場に不釣り合いなほどの、完璧な可愛らしさの塊。


「僕はトリリウム! 君に、この世界を救う、特別な力を持つ魔法少女になってほしいんだ!」


 トリリウムは、いつものように明るい声で言った。


 だが、アザミは何の反応も見せなかった。


 椅子に腰を下ろしたまま、ゆっくりと彼を見ただけだ。


「……そうですか」


 抑揚のない返事。


 喜びも、驚きも、疑問もない。


 まるで言葉の意味だけを口にして、心を通さなかったような声だった。


 トリリウムは、わずかに首をかしげた。


 これまでの少女たちは、誰もが何かしらの感情を返してくれた。


 驚き、戸惑い、あるいは希望。


 だが、目の前の少女は、何も感じていない。


 その瞳には、光も焦点もなかった。


(ダメか……この子は、心が死んでいる……)


 トリリウムは、内心でため息をついた。


 焦りが、ガラスの体の奥で静かにきしむ。


 ここ最近、候補者探しは難航を極めていた。


 都市伝説のように広まった《魔法少女の噂》への警戒感からか、普通の幸せな少女たちは、彼の甘い勧誘に耳を貸そうとしない。


 原因不明の騒動の中に、《魔法少女》がいる。


 証拠も何もない、ただの噂。 


 けれど、それがトリリウムの勧誘の大きな障害となっていた。


 やむを得ず、こんな閉鎖された施設の、訳ありの少女にまで手を伸ばしたというのに。


 これではシステムの起動条件である意志がトリガーされない。また、失敗か。


「まあ、魔法少女になるにはね、チクッてするけど……大したことじゃないさ」


 次の候補者を探せばいい、勧誘の記憶なんて消せばいい、とあきらめながらその準備をしながらつぶやいたその言葉。


 その瞬間、初めて、アザミの世界が動いた。


 ずっと虚空を見ていた瞳が、ゆっくりと、錆びついたブリキ人形のように、トリリウムに向けられる。


 何も映していなかった黒い瞳の奥に、鈍く湿った光がぽつりと宿った。


「……ちくっと、するの?」


 初めて聞く、感情のこもった声。


 それは、恐怖ではなかった。


 プレゼントの在り処を尋ねる子供のような、微かな期待と、長い間忘れ去られていた、渇望の色をしていた。


 トリリウムは、動きを止め、予期せぬ反応に言葉を失った。


(え……そっち?)


「はい。しますか?」


 重ねてトリリウムに聞くアザミの声は、震えていた。


 魔法少女になるか、ではなく、痛いのか、と。


 トリリウムは、目の前の少女の異常性をはっきりと認識した。


 しかし同時に、利用価値も感じ取っていた。これは、今までのどの魔法少女とも違う。規格外になるかもしれない。


「あ、ああ……チクっと、するよ。 結構、痛いかも」


 その答えを聞いたアザミは、ふっと、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 痛い。それは、彼女にとって、世界が自分に触れてくるということ。


 自分が何かを「されて」もいい存在だと、役割を与えられ、認められるということ。


 それは笑みと呼ぶにはあまりにも不器用で、まるで磁器の人形の顔に、一本のひびが入ったかのような、歪な形だった。


 彼女は、静かに、しかしはっきりと頷いた。


「なります。魔法少女に」


 ちょうどそのとき、遠くで街のサイレンが、かすかに鳴った。


「私に、痛み()ををください」


 トリリウムは、これまでの誰とも違う、理解不能だが、あるいは「史上最高」のサンプルになるかもしれない異質な少女を前に、言い知れぬ期待と、底知れない恐怖を感じていた。


 彼はまだ、知らなかった。


 自分が今、壊れかけた少女に与えようとしているのが、希望ではなく、決して抜け出すことのできない依存という名の、最後の地獄なのだということを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ