空虚と、満たす愛 (前)
その部屋は、消毒液の匂いがした。
白い壁。
白いベッド。
冷たいリノリウムの床。
窓の外には、高い塀と、よく手入れされた芝生が広がっている。
風も、人の声もない。
厚い壁に音が吸い込まれ、世界はいつも、耳の奥が痛くなるほど静かだった。
ここは医療少年院。
朝霧アザミの世界は、色も温度も薄く、ただ整えられた空間の中にあった。
彼女は、窓際の椅子に座り、外を眺めていた。
何かを待つでも、考えるでもなく、ただそこにいた。
長い前髪が顔に影を落とし、その表情を窺い知ることは難しい。時折、規則正しく瞬きをする様は、精巧に作られた人形を思わせた。
かつて、この場所に来る前。彼女の世界には、「痛み」があった。
それは、父の拳であり、母の平手打ちだった。
『お前がいい子にしていないからだ』
『愛しているから、叩くのよ』
その罰だけが、彼女に「ここにいる」という実感を与えていた。
痛みこそが、唯一の温もりだった。
だが、あの夜を境に、その痛みは消えた。
今の彼女は、誰にも触れられず、誰の声も届かない場所で、
止まった時間の中に座っている。
整いすぎた空気。
そこでは何も腐らず、何も育たない。
彼女はただ、そこにいた。
呼吸をすることさえ、意味を失ったように。
だから、それが現れたときも、心は一ミリも動かなかった。
「こんにちは! 君が、朝霧アザミちゃんだね?」
膝の上に、ぽすん、と音もなくフェルト生地のマスコットが落ちてきた。
大きなガラス玉の瞳、刺繍されたにこやかな口元。
その場に不釣り合いなほどの、完璧な可愛らしさの塊。
「僕はトリリウム! 君に、この世界を救う、特別な力を持つ魔法少女になってほしいんだ!」
トリリウムは、いつものように明るい声で言った。
だが、アザミは何の反応も見せなかった。
椅子に腰を下ろしたまま、ゆっくりと彼を見ただけだ。
「……そうですか」
抑揚のない返事。
喜びも、驚きも、疑問もない。
まるで言葉の意味だけを口にして、心を通さなかったような声だった。
トリリウムは、わずかに首をかしげた。
これまでの少女たちは、誰もが何かしらの感情を返してくれた。
驚き、戸惑い、あるいは希望。
だが、目の前の少女は、何も感じていない。
その瞳には、光も焦点もなかった。
(ダメか……この子は、心が死んでいる……)
トリリウムは、内心でため息をついた。
焦りが、ガラスの体の奥で静かにきしむ。
ここ最近、候補者探しは難航を極めていた。
都市伝説のように広まった《魔法少女の噂》への警戒感からか、普通の幸せな少女たちは、彼の甘い勧誘に耳を貸そうとしない。
原因不明の騒動の中に、《魔法少女》がいる。
証拠も何もない、ただの噂。
けれど、それがトリリウムの勧誘の大きな障害となっていた。
やむを得ず、こんな閉鎖された施設の、訳ありの少女にまで手を伸ばしたというのに。
これではシステムの起動条件である意志がトリガーされない。また、失敗か。
「まあ、魔法少女になるにはね、チクッてするけど……大したことじゃないさ」
次の候補者を探せばいい、勧誘の記憶なんて消せばいい、とあきらめながらその準備をしながらつぶやいたその言葉。
その瞬間、初めて、アザミの世界が動いた。
ずっと虚空を見ていた瞳が、ゆっくりと、錆びついたブリキ人形のように、トリリウムに向けられる。
何も映していなかった黒い瞳の奥に、鈍く湿った光がぽつりと宿った。
「……ちくっと、するの?」
初めて聞く、感情のこもった声。
それは、恐怖ではなかった。
プレゼントの在り処を尋ねる子供のような、微かな期待と、長い間忘れ去られていた、渇望の色をしていた。
トリリウムは、動きを止め、予期せぬ反応に言葉を失った。
(え……そっち?)
「はい。しますか?」
重ねてトリリウムに聞くアザミの声は、震えていた。
魔法少女になるか、ではなく、痛いのか、と。
トリリウムは、目の前の少女の異常性をはっきりと認識した。
しかし同時に、利用価値も感じ取っていた。これは、今までのどの魔法少女とも違う。規格外になるかもしれない。
「あ、ああ……チクっと、するよ。 結構、痛いかも」
その答えを聞いたアザミは、ふっと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
痛い。それは、彼女にとって、世界が自分に触れてくるということ。
自分が何かを「されて」もいい存在だと、役割を与えられ、認められるということ。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも不器用で、まるで磁器の人形の顔に、一本のひびが入ったかのような、歪な形だった。
彼女は、静かに、しかしはっきりと頷いた。
「なります。魔法少女に」
ちょうどそのとき、遠くで街のサイレンが、かすかに鳴った。
「私に、痛みををください」
トリリウムは、これまでの誰とも違う、理解不能だが、あるいは「史上最高」のサンプルになるかもしれない異質な少女を前に、言い知れぬ期待と、底知れない恐怖を感じていた。
彼はまだ、知らなかった。
自分が今、壊れかけた少女に与えようとしているのが、希望ではなく、決して抜け出すことのできない依存という名の、最後の地獄なのだということを。




