棘と、ゆめの終わり
時間が、止まった。
ユメの思考は、右手甲を貫く一本の棘に、その全ての機能を奪われていた。
さっきまで胸を満たしていた、世界を救うという使命感。ヒーローになったという高揚感。
可愛い衣装に身を包んだ、万能感。その全てが、まるで嘘だったかのように、この一点の、あまりに生々しい現実の前で霧散していく。
痛い。
ただ、痛い。
皮膚を突き破り、肉を抉り、骨にまで届きそうな、鈍く、熱い痛み。
心臓が脈打つたびに、傷口がズキン、ズキンと疼き、全身の血がこの傷へと集まってくるかのような錯覚に陥る。
「……なんで……?」
か細い声が、震える唇から漏れた。
何かの間違いだ。きっと、悪い夢を見ているんだ。そうに違いない。
ユメは恐怖に駆られ、痛みの元凶であるステッキを、今度こそ本気で投げ捨てようとした。
左手を添え、渾身の力で引き剥がそうと試みる。
「いっ……! あ、あああああっ……!」
しかし、その行為は、彼女をさらなる地獄へと突き落としただけだった。
肉に食い込んだ逆さ針の棘が、引き抜こうとする力に逆らい、皮膚と肉を無慈悲に引き裂く。
ブチブチと、嫌な音が耳の奥で響いた。
傷口が広がり、止めどなく溢れ出した血が、美しいはずのステッキの柄を、そして自分の手を、ぬるりと濡らしていく。
手首に巻き付いた茨は、ただの装飾ではなかった。
ユメがステッキを引き抜こうと腕に力を込めると、茨に仕込まれた無数の棘が、まるで意志を持つように反応した。
ぎちり、と音を立てて収縮し、関節に食い込む。
皮膚が裂け、新たな血が滲む。冷たく硬い感触。植物というより、金属と何かの混ざり物のようだ。
引けば裂け、力を込めれば締まる。
逃げられないように作られている――そう直感した。
これは、外れない。
そもそも外すという選択肢が、最初から存在しないのだ。
抵抗すればするほど、痛みが増し、出血が増え、無力に消耗していくだけ。
その絶対的な事実が、冷たい鋼の楔のようにユメの思考に打ち込まれた。
希望という名の風船が、鋭い針で突き刺されたかのように、一瞬で萎んでいく。
冷たい絶望が、足元から這い上がり、心臓を鷲掴みにし、ユメの全身を駆け巡った。
「トリリウムッ!」
彼女は、最後の望みをかけて、この状況を生み出した張本人の名を叫んだ。 涙で視界が滲み、もう彼の姿はよく見えない。
「これ、なに!? なんでなの!? 痛いよ! 離してよぉっ!」
物陰からひょっこりと顔を出したトリリウムは、そんなユメの絶叫を、まるで子供の癇癪でも見るかのように、きょとんとした顔で見上げていた。
そのガラス玉のような瞳には、同情も、憐れみも、何一つ浮かんでいなかった。
ただ、目の前で起こっている現象をデータとして収集するような、無機質な光が宿っているだけだった。
「その痛みが、君の魔力の源になる。それが、このシステムのしくみだよ」
しくみ。
まるで、ゲームのチュートリアルでも読み上げるかのような、平坦で、軽い口調。
その言葉には、肉が裂け、血が流れるという生々しい現実の気配が、欠片もなかった。
その、あまりの温度差に、ユメの心は完全に折れた。
「大丈夫じゃない! こんなの、聞いてない!!」
涙ながらの絶叫。それは、助けを求める最後の悲鳴だった。
しかし、トリリウムは、その悲痛な訴えを真正面から受け止めなかった。
まるで的外れな質問に答えるかのように、にっこりと完璧な笑顔を浮かべたまま。
「すごいじゃないか、ユメ! 初めての変身で、もうこんなにたくさんの魔力を引き出せるなんて! 君には、やっぱり最高の才能があるよ!」
悪意のない、純粋な称賛。
ユメが訴えている”痛み”と”裏切り”を、完全に無視し、ただ”結果”だけを褒める。
その、致命的なまでの対話の不成立。
彼女の絶望が、彼の賞賛の言葉によって、まるで価値のないもののように塗りつぶされていく。
その無邪気な残酷さが、ユメの最後の希望の欠片を、踏みにじった。
ユメは笑おうとした。
でも、笑い方を忘れていた。
唇が震え、声が出ない。
世界が、少しずつ壊れていく音がした。
この可愛いマスコットは、自分の味方ではなかった。 この地獄の案内人に過ぎなかったのだ。
そんな、内的な絶望が彼女を苛んでいる間にも、外的な脅威は、着実にその距離を詰めていた。
殻花が、一歩、また一歩と、ユメに向かって歩みを進めてくる。
コンクリートを削る重い足音が、地面を揺らし、ユメの身体に直接響いてきた。
巨大な影が、すぐそこまで迫り、夕暮れの光を遮っていく。
鉄錆と、埃の匂い。怪物が発する、形容しがたい圧迫感。
「ユメ! 敵が来るよ、早く戦って! ステッキを握りしめて、魔力を撃ち出すんだ!」
トリリウムが、監督のように指示を飛ばす。
戦う?
この手で?
このステッキを?
無理だ。
ユメの頭の中は、痛みと恐怖と絶望で、もうぐちゃぐちゃだった。
ステッキを握りしめるどころか、視界に入れることさえ耐えられない。
早くこの忌々しいステッキを、自分の身体から引き剥がしたい。その一心しかなかった。
トリリウムの声も、怪物の足音も、遠くで響くサイレンも、全てが現実感のない、耳障りな雑音にしか聞こえない。
「どうして……」
涙で濡れた頬のまま、ユメは、力なく呟いた。
それは、誰に言うでもない、魂からの悲痛な問いかけだった。
「ただの、かわいい魔法少女に、なりたかっただけなのに……」
その、あまりにもささやかで、純粋だった願いは、迫りくる怪物の咆哮にかき消された。
ユメが、絶望に染まった顔を上げた時。
巨大な影が、なすすべもなく立ち尽くす彼女を、完全に覆い尽くしていた。
右手の甲に刻まれた、決して消えることのない傷から、まるで涙のように、もう一粒、赤い血が静かに零れ落ちた。
巨大な影が、ユメの視界を完全に覆い尽くした。
殻花が、無慈悲に振り下ろした巨大な触手が、風を切り裂き、唸りを上げて迫ってくる。
(――死ぬ)
その一言だけが、痛みと恐怖で麻痺したユメの脳裏をよぎった。
「きゃあああああっ!」
衝撃。
しかし、それは想像していたような、身体が砕け散るような激しいものではなかった。
ドン、という鈍い音と共に、ユメの華奢な身体は、まるでボールのように軽々と吹き飛ばされた。
受け身も取れず、アスファルトの上を無様に転がり、瓦礫の山に叩きつけられて、ようやく止まる。
「……っ、かはっ……!」
肺から空気が全て搾り出され、息ができない。
全身を、骨が軋むような激痛が貫く。口の中に鉄の味が広がり、視界がちかちかと赤く点滅した。
魔法少女の衣装は、その衝撃で所々が引き裂かれ、擦り切れている。
だが、その下に隠されたユメ自身の身体は、超常的な魔力によって守られていたのか、致命傷には至っていない。
しかし、その事実は、彼女にとって何一つ救いにはならなかった。
死ぬよりも辛い、終わりなき苦痛の始まりを告げる、ゴングの音に過ぎなかったからだ。
「ユメ! 早く立って! 反撃するんだ!」
少し離れた場所から、トリリウムが叱咤する声が聞こえる。
反撃?
どうやって?
ユメは、霞む目で自分の右手を見た。
吹き飛ばされた衝撃で、ステッキの棘がさらに深く肉に食い込み、血が滲んでいる。
少しでも動かそうものなら、神経を直接焼かれるような激痛が走った。
もう、戦うとか、逃げるとか、そういう思考は、彼女の中から完全に消え失せていた。
殻花は、動かなくなったユメを、まるでおもちゃでもいたぶるように、ゆっくりと、しかし執拗に、殴りつけた。
ドン、と鈍い音が響くたびに、ユメの身体が跳ねる。
ドン、ドン、と、まるで大きな心臓の鼓動のように、無機質な暴力が繰り返される。
そして、その鈍い衝撃が全身を揺らすたび、右手には全く別の、鋭い痛みが突き刺さる。
希望の象徴であるはずのステッキが、その振動で肉を抉り、骨を削るのだ。
深紅の衣装にまとわりついた茨が、攻撃してくる触手にチクチクと刺さり、かすり傷を作る。
だが、そんなものは巨大な怪物にとって、蚊に刺されたほどの意味もなさなかった。
痛みが走る。
皮膚を裂き、骨を叩き、心臓の奥を焼く。
一度きりの痛みじゃない。波のように寄せては返し、全身を溶かしていく。
外からの鈍い痛みと、内側から神経を焼く激しく鋭い痛み。
どこが、どうして、痛いのか、もう分からない。
体がひとつの痛みになってしまったみたいだ。
もう、何が起こっているのか分からない。
熱いものが喉から込み上げてきて、アスファルトの上に赤い染みを作る。
視界は赤と黒で点滅し、意識が、まるで水の中に沈んでいくように、ゆっくりと遠のいていく。
(いたい……もう、やだ……おうちに、かえりたい……)
朦朧とする意識の中、最後に見たのは、自分にトドメを刺そうと、大きく振りかぶる殻花の姿だった。
ああ、これで、終わるんだ。
やっと、この痛みから、解放される――
……はずだった。
ユメの命が、最後の灯火が、ふっと消える刹那。
彼女の身体そのものが、最後の魔力となった。
ユメの意志とは全く関係なく、ただ生命が尽きたという事実だけをトリガーにして発動した、最期の魔法。
彼女の胸元が、内側から淡く光り始めたかと思うと、みしり、と音を立てて皮膚が裂け、そこから赤黒い茨の蕾が突き出した。
それは、少女の最後の生命力を養分にして、一気にその花弁を開いた。
ユメの身体そのものが、巨大で、いびつで、しかしどこか神々しい一輪の薔薇へと変貌していく。
手足は蔓となり、肋骨は棘となり、その魂は花弁となった。
咲き誇った血の薔薇は、振り下ろされようとしていた殻花の身体を、下から突き上げるように貫いた。
「ギ……!?」
硬い外殻をいとも容易く突き破り、その存在ごと、巨大なオブジェのように串刺しにする。
怪物は断末魔の叫びを上げる間もなく、内側から侵食する無数の棘によって崩壊し、光の塵となった。
その瞬間、空気が変わった。
戦場を支配していた焦げた金属と鉄錆の匂いが、ふっと、どこか甘く、清らかな花の香りに置き換わっていく。
殻花を貫いた棘はなおも脈動し、薔薇の花弁の内側から、赤い液体が一枚、また一枚と零れ落ちた。
それは血ではなく、涙のように透明な輝きを帯びていた。
風が、吹いた。
巨大な花弁が、音もなく揺れる。
まるで、眠る誰かの呼吸のように、ゆっくりと開き、そして閉じていく。
そこに、小鳥遊ユメの姿はもうどこにもなかった。
ただ、咲き切った薔薇だけが、彼女の代わりに、最後の息吹を繰り返しているかのようだった。
やがて、静寂が戻る。
後に残されたのは、ボロ布のように引き裂かれたアスファルトと、そこに根を張る、巨大な一輪の薔薇だけだった。
だが、その異形の華が存在を保てたのは、ほんのわずかな間だけだった。
ひとひらの花弁が、ひそやかに空へと溶ける。
それを皮切りに、一枚、また一枚と、美しい花弁が次々と崩れていった。
少女の身体から生まれた蔓も、棘も、魔力のチリとなって夕暮れの空気に還っていく。
やがて、全てが消え失せ、そこには何も残らなかった。
少女がいた痕跡も、戦いがあった証拠さえも、まるで最初から何もなかったかのように。
瓦礫の陰から、トリリウムがひょっこりと顔を出した。傷ひとつない、綺麗な姿だった。
彼は、少女が消えた空虚な空間を、ガラス玉のような瞳でただじっと見つめていた。
「……うん。これで、ひとつ片付いた」
トリリウムは静かに目を細め、わずかに頷いた。
その仕草には、悲しみも安堵もなく、ただ淡い習慣のような静けさだけがあった。
「さて、と」
トリリウムはくるりと背を向けると、軽い足取りでぴょん、と跳ねた。
「次を探さなきゃね」
夕焼けが、まるで血のように、静かな街を赤く染めていた。
週末に行くはずだったクレープ屋の、甘い匂いだけが、虚しく風に乗って漂っていた。




