選択と、光
その巨大な植物を目の前に、ミサは傷だらけの身体で、思考を巡らせる。
(……まだだ……まだ、試していない、リソースが、残っている)
彼女は、自らの、ボロボロになった身体を見つめた。
手足の損傷は、これ以上の魔力増幅には効率が悪い。
腕を失えば、ステッキが振るえない。
脚を失えば、体勢が安定しない。
出血だって少なくない、元に戻る前に死んでしまうかもしれない。
合理性に欠ける。
ならば、どこか。
戦闘の継続に、支障が少なく、それでいて、最も、強烈な痛みとして認識できそうな場所。
ミサは、ステッキを握る手を持ち上げる。
血塗られた手、手の甲を貫く大きなトゲ。
焦点が合わないほど大きくソレが映る。
(……どうせ、終われば、元に戻るから)
彼女は、自分に、そう、言い聞かせた。
けれど、想像がつかない痛みへの躊躇があった。
もう、皮膚が裂ける感触は知っている。
骨が折れるのも、肉が抉れる感触も。
けれど、眼は、わからない。
角膜ですら、痛覚が集まっている。
調べていなければ、知識がなければもっと楽にできたんだろうか。
フゥ、フゥ、と息を整え、唾を飲み込み、歯を食いしばって。
彼女は、その棘を、自らの眼窩へと、突き立てた。
「―――ッッッ!!!!」
光が爆ぜた瞬間、音も、匂いも、彼女の中から消えた。
声にならない、絶叫。
視神経が、ブチブチと引きちぎれる感触。
脳髄そのものを、直接、握りつぶされるかのような、光が爆ぜた瞬間、音も、匂いも、彼女の中から消えと感じられるほどの、痛み。
しかし、その絶大な痛みは、確かに、これまでとは比較にならないほどの、膨大な魔力へと変換された。
ミサの全身から、オーラのように、深紅のエネルギーが、噴き出す。
「……は……ぁ……ぁ……」
片方の視界を失い、血と涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ミサは、最後の力を振り絞り、ステッキを構えた。
息苦しさだけじゃない、そんなのどうでもいいと感じられるほどの痛み。
片方が見えているはずなの位、視界は朦朧とし、赤く濁っていた。
そして、放つ。
自らの“光”を犠牲にして作り出した、最後の、魔法の矢。
血のような、薔薇のような、鋭く大きく、赤い矢。
―――ゴガアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!
これまでで、最大級の轟音が、地下空洞全体を、揺るがした。
爆炎が、視界を、完全に、白く染め上げる。
パラパラ、と、何かが崩れて天井から落ちてくる。
「……はぁ……はぁ……っ」
やがて、粉塵が、ゆっくりと晴れていく。
ミサは、残された右目だけで、その結果を確認した。
天井の、巨大な蕾。
先ほど砕け散った花弁の、その隣の数枚が、新たに、消し飛んでいるだけ。
キラキラと砕けて散っている、花弁のシャワー。
核は鈍く、赤く光ったまま。
何も変わらなかった。
彼女の尋常ならざる覚悟。
狂気的な行為を理性的に行い、意識を失わなかっただけでも十分なその行為。
それですら、無駄な自傷行為に過ぎなかったのだ。
ミサの頭の中に、残された手札は、両手に1枚ずつ。
1枚は、何もしないならばこのまま放置するという、自らは助かる選択肢。
しかしそれは、合理的ではない。
コレが育てばいずれ、都市が正常に機能しなくなるだろう。それ以上に、死の大地と化す可能性もある。
却下。その選択肢を、自らの手で破り捨てる。
ならば、残されたもう一方の手札。
自らの死と引き換えに、敵一体を確実に消滅させる、あの、醜悪なしくみ。
《最終開花》
ミサは、トリリウムの方を、静かに振り返った。
その瞳には、もう、涙はなかった。
「トリリウム」
「……なんだい?」
「質問に、答えてください」
彼女は、天井の花の、硬い殻に覆われた核を指差した。
「もし、私が、ここで死に、《最終開花》が発動した場合。あれを、確実に処理することは、可能ですか?」
トリリウムは、すぐに答えた。
「おそらく、ね。ただ、同じ個体を見たことがないから確実だとは言えないけれど。今まで《最終開花》で敵が生き残っていたのは見たことがないよ」
どんな大きな敵だろうと、どんなに特殊な能力を持っていようと、飾花という存在を、倒すことのできる、絶対の魔法。
トリリウムは普段であれば「できる」と断言しただろう。
けれど本当にわからないのか、嘘を付けない以上、そう答えるしかなかった。
「……そうですか」
ミサはその答えを聞くと、すっと目を閉じた。
(……それしか、ないのか)
でも、死にたくない。
死ぬために、戦っているわけではない。
私が死んだら、次のか弱い少女が、魔法少女となって死ぬ。
そうしたくないと、願って続けてきた。
だから死ねない。いいや、そうでなくても、死にたくない。
死にたくは、ない。
いっそ、あの花が、攻撃してきてくれれば。
戦いの中で、不可抗力として死ねたなら。
どれほど、楽だっただろうか。
しかし、目の前の花は、ボロボロになったミサのことなど、今までの攻撃も意にも介していないかのように、大地を蝕み続けている、花。
ミサは、震える手で、ステッキを持ち上げた。
その先端を、自らの心臓へと、ゆっくりと向ける。
覚悟を決めれば、できるはずだ。
しかし。
その手は、止まった。
ガタガタと、みっともなく震えている。
ステッキの先端が、胸のドレスに触れたところから、力が入らない。
「……あ……」
ぽたり。ぽたり。
眼から赤い液体と、透明な液体が零れ落ちる。
残された片眼からの、大粒の涙。
それは、悲しみや、悔しさの涙ではなかった。
ただ、純粋な、死にたくないという、誰でも持つ当たり前の感情と、本能。
「いや……いやだ……」
「死にたくない……怖い……」
嗚咽が止まらない。
涙で、痛みで、視界が滲んで、何も見えない。
ただ、怖い。死ぬのが、怖い。
こんな、誰にも知られない、冷たい、暗い場所で、一人きりで死んでいくのが。
泣きじゃくるミサの隣に、トリリウムが静かに佇んでいた。
そのガラス玉のような瞳で、絶望に打ちひしがれる少女のその行動を、見つめているだけだった。
「……なんで……」
ミサは、残された瞳で、トリリウムを睨みつけた。
冷静な計算をしてきた、よくできた魔法少女の瞳ではない。
ただ、八つ当たりをするしかない、子供の瞳。
「なんで……! なんで、もっと早く、これを、見つけてくれなかったのですか……!」
世界を蝕んでいくであろう、天井から咲く、巨大な花。
「……もっと早く、これが見つかっていれば……!」
「まだ、幼体のうちに、対処できていれば!」
「もっと、別の手が、あったはずなのに!」
それは、トリリウムへの当然の責任追及だった。
「……仕方ないじゃないか。こいつは、攻撃してこない。ただ、静かに、エネルギーを吸ってるだけだ。地上への影響も、まだ、ごく僅か。ここまで巨大化するまで、本当に気が付かなかったんだよ」
その、あまりにも無責任なと言わんばかりの返答。
「嘘を、言わないでください……!」
「キミには嘘をつかない、それは契約の時と同じなんだ。 本当に、本当なんだ」
トリリウムは、少しだけ落ち込んだ様子を見せた。
それが、彼女のための悲しみなのか。
あるいは、倒せないという結果への無力さなのか。
それとも、この優秀な少女を失い、また次を探さねばならない手間を思っただけなのか。
ミサは、そんな彼をしばらく見つめていた。
やがて、瞳の奥の嗚咽と恐怖の色が、ゆっくりと沈んでいく。
それは、感情が消えたわけではなかった。
消すことなど、できなかった。
ただ、押し殺した。
自分の中での生きたいという声を、冷たい理性で、何度も、何度も、押し潰した。
肺の奥が軋むほどの静寂。
脈が痛みのリズムを刻むたび、心臓がまだ動いていると主張していた。
それでも、彼女は、呼吸を整え姿勢を正した。
そうだ――泣いても、叫んでも、世界は変わらない。
このトリリウム(無能な端末)を責めたところで、誰も救われない。
ならば、せめて。
この涙だけは、自分の手で止めなければならない。
ミサは、自らの頬を拭えば、涙の代わりに、拭った手についた血で顔が汚れた。
そして、再び瞳を上げたとき、その中には、もう怯えも、迷いもなかった。
ただ、燃え尽きる寸前の理性の光だけが、残っていた。
光は消えたのに、赤く映る世界。
脈打つたびに、激痛が走る。
彼女は、ステッキを持ち上げ、再びその先端を、自らの心臓へと向ける。
痛みからか、覚悟からか、まだ震える手。
トリリウムは、その様子をただ、ガラス玉のような目で見ていた。
「私は、不合理が嫌いなのです」
ミサは、静かに、誇らしげに言った。
「ここで私が何もしなければ、この都市は、いずれ滅びる。それは、不合理だ」
まるで、自らそうしなければならないと、言い続けるように言葉を続ける。
「私が、ここで死ねば、この都市は、救われる。」
ステッキの先が、鋭く、尖り始める。
「できるだけ早く終わらせるのが、合理的。これ以上は、倒しても、被害は、拡大するだけ」
閉じた瞼から、液体が頬を伝い、衣服に、地面に落ち続ける。
「だから、こう、するしかない」
言葉を紡ぎ続けるのは、時間をかけるのは、合理性から外れているとわかっていても。
「――最終開花」
彼女は、自らの意志で
ステッキを、自らの心臓に、突き立てた。
声にならない声が、喉の奥で弾けた。
熱い鉄の杭が、胸の中心を、いとも容易く貫いていく。
肺がつぶれ、空気が逃げる。
焼けた鉄が心臓を通して背骨をなぞり、世界が白く爆ぜた。
生命そのものが、内側から破壊されていく。
絶対的な、痛み。
ミサの身体が、大きく痙攣した。
(……ああ、やはり、これは、美しくない……ですね)
それが、彼女の、最期の、人間らしい思考だった。
膝が崩れ、細い身体が、糸の切れた人形のように、地面へと崩れ落ちていく。
その瞳から、最後の理性の光が、すぅっと、消え失せた。
一人の少女、霧崎ミサの、短い生涯の、静かな幕引き
そして、最期の魔法が放たれる。
自ら選んだ結末とはいえ、魔法少女の最後のしくみが発動する。
突き立てて、脈を止めた心臓が再び脈打つように。
ずるずると、ステッキを彼女の肉が変形して、巻き付いていく。
それは大きな、黒く、鋭い、棘の槍というべき強大なもが。ただ一点。
天井で咲き誇る、巨大な花の核だけを目指していた。
それが、一直線に、天井の核へと向かう。
これまで、ミサの最大火力の攻撃すら、何も変えることができなかった絶対的な硬い殻。
それに、棘の槍が、音もなく、突き刺さる。
そして、爆ぜた。
内側から、鋭い棘が変貌し、核を内側から、その存在そのものを、ズタズタに、引き裂いていく。
ビシビシ、とひびが入り、パリン、と音を立てて、その核が砕け散る。
そして、美しい水晶の花弁も、千切れ、砕け、ガラスのように輝いて、魔力の塵となっていく。
ミサだった、爆ぜた棘の茨も、役目を終えたとともに光になり消えていく。
やがて、魔法少女と蝕花だったものの、魔力の雨が止んだ後、絶対的な静寂が訪れる。
。
天井には、巨大な花があった場所に、ぽっかりと、大きな穴。
そして、地面には彼女がここまで来るのに使っていたのであろう、小さな懐中電灯が、血だまりの中で、弱々しい光を放っていた。
その先で、懐中電灯に照らされたトリリウムが、少しだけ肩をすくめるようにしながら、その血だまりを見つめる。
残された深紅のドレスも、流れた血も、残された彼女だったものが、きらきらとした魔力のチリとなり、静かに、虚空へと、消えていく。
「さて、と」
彼は、その儚い光景に、何の感慨も抱くことなくくるりと背を向けた。
「次を探さきゃね」
トリリウムの声は、瓦礫の静寂に吸い込まれた。
誰もいない。
ただ、少女が残した光だけが、ゆっくりと、消えていった。




