空白と、空間
時間だけが、刻一刻と過ぎていく。
ミサの焦燥感は、頂点に達していた。
彼女は、施設の自室、ベッドの上で膝を抱えながら、ただ、ひたすらに、トリリウムの帰りを待っていた。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
もし、地下に何もいなかったら?
そしたら、また、終わりの見えない、静かな拷問の日々が始まるだけだ。
もし、見つかって、しまったら?
それなら、どうか。
(……どうか、まだ、育っていませんように)
いるかもわからない、神へと祈りをささげる。
ガタッ!
部屋の窓から、勢いよく、小さな影が飛び込んでくる。
泥などで汚れた、トリリウムだった。
「いたよ、ミサ!」
しかし、彼の声は、ミサが想像していたような、恐怖に満ちたものではなかった。
いつもの通り、魔法少女のマスコットとしての、トリリウムの声声。
「地下の奥に、確かにいたよ! かなり深くにいたから、気づきにくかったみたいだ! お手柄だよ、ミサ!」
トリリウムが、手放しで褒めてくれている。
しかし、ミサの心は、歓喜ではない。
肝心な部分が、まだ、聞けていない。
「……トリリウム」
ミサの震える唇から漏れるのは、かすれる、小さな声。
不安が口から漏れ出るように。
「……敵は、強大、ですか?」
「うーん……」
トリリウムは、少しだけ、首を傾げた。
「大きいみたいだったのは、確かだね……。でも、きっと、ミサなら倒せるさ!」
その言葉は、いつも通りだった。
いつも通り、無責任で。
しかし、その言葉にある一つの残酷な真実。
(……倒せる。ええ、そうでしょうね)
たとえ、どんな敵であれ、《最終開花》を使えば、確実に倒せる。
トリリウムは、決して嘘はついていない。
ミサは、静かに立ち上がると、机の引き出しから一本の懐中電灯を取り出した。
その、冷たい金属の感触だけが、これからの未来を感じさせるようで。
施設の、冷たい廊下を、ひとり、歩く。
自分の足音だけが、やけに大きく響いていた。
身体が、鉛のように重い。
思考の輪郭が、少しだけ、滲んでいるようなな感覚。
施設から抜け出して進む、深夜の街は、死んだように静まり返っていた。
彼女は、地図データで確認した、旧地下鉄開発区域のフェンスで閉ざされた入り口の前に立つ。
小さく破れたフェンス。いつ、だれが破ったのだろうか。
その答えがなんであれ、進むしかないのは変わらない。
少しだけフェンスの先が引っ掛かって、服が破れるけれど、細かいことは気にせず進んでいく。
先にある重たい扉を開ければ、懐中電灯のスイッチを入れ、暗く、冷たい、口の中へと、自ら足を踏み入れた。
鼻腔を突くのは、カビと、埃と、そして、淀んだ水の匂い。
ミサは、躊躇しなかった。
地下へと続く、長い、長い、階段。
壁からは、絶えず水が滴り落ち、不気味な反響音を生んでいる。
懐中電灯の、頼りない光の輪が、彼女が進むべき道を示していた。
その光が、時折、壁に張り付いた、粘液のような黒い染みを照らし出す。
(……菌糸の、痕跡)
間違いない。
アタリだ。
その確信は、彼女に安堵はできない。
むしろ、心臓を直接握りつぶされるかのような感じがする。
どれくらい、歩いただろうか。
やがて進んでいけば、だだっ広いコンクリートの空間に出た。
開発が頓挫した、駅のホームになるはずだった場所。
空気の匂いが、変わった。
カビの匂いに混じって、甘ったるい花の蜜のような香り。
しかしそれは、気分が悪くなるような、冒涜的な匂い。
その花の香が漂い始めている。
そして、聞こえる。
遠くで、何かが、脈打つような、低い、低い、音。
この地下空間そのものが、一つの巨大な心臓となって、ゆっくりと、鼓動しているかのようだった。
ミサは、歩みを、止めなかった。
怖い。
逃げ出したい。
そんな、合理的ではない感情が胸の奥から、胃の奥から何かがせり上がってくるのを、必死で押し殺す。
彼女は、その音のする方へ、一歩、また一歩と、歩を進めていった。
花の匂いに、その蜜に座れる虫のように。
やがて、巨大な岩盤が剥き出しになった、大空洞に出る。
その場所は、都市の、忘れ去られた傷跡だった。
かつて、大規模な地下鉄開発計画があったが、予算の都合と予期せぬ巨大な地下空洞の発見により、計画は頓挫した。
今はもう地図にも載っていない、むしろ隠された、巨大な、暗く湿った空間。
ミサは、その入り口で立ち尽くした。
そして、懐中電灯の光を、ゆっくりと、上へと向け、目の前の光景に息をのんだ。
異質な存在。
広大な空洞の、その天井一面に、巨大な花が咲き誇っていた。
それは、水晶のように透明感のある花弁と、黒曜石のように鈍く光る蕾が、無数に連なった、シャンデリアのような蝕花。
美しい、と、一瞬だけ、思ってしまった。
逆さに咲く、ガラスの花。
無数の太い根が、天井の岩盤を突き破り、さらにその上の大地へと、深く、深く、食い込んでいる。
その根が、今この瞬間も、都市の生命エネルギーを、大地から、水から、静かに、しかし、確実に吸い上げているのだと、ミサは理解した。
このまま放置すれば、数ヶ月後には、地上は、全てが枯れ果てた、死の大地と化すだろう。
その、あまりにも美しく、そして、あまりにも醜悪な花の、中心。
ひときわ大きく、硬い殻に覆われた蕾。おそらくあれの中に核があるのだろう。
ミサは、変身した。
甲を貫く、慣れたはずの痛み。
しかし、今の彼女には、その痛みすらも遠い世界の出来事のように感じられた。
(……合理的、かつ、効率的に)
彼女は、自らの思考に命令する。
敵は動かない。
的は、大きい、大きいけれど、それだけ。
ならば、やることは、一つ。
ミサは、ステッキを握りしめた。自らの骨が軋むほど、強く。
痛みに比例して魔力を生み出す。言葉にするだけならば簡単な行為。
痛みで明滅する視界の中、彼女は、全ての魔力を一点に収束させる。
狙うは、天井の硬い蕾。
放たれた魔力の矢は、深紅の閃光となって、寸分違わず核を捉えた。
―――しかし。
カキンッ。
軽い、あまりにも、軽い音がしただけだった。
魔力の矢は、核の硬い殻に当たって、虚しく弾かれ、霧散した。
傷一つ、ついていない。
「……火力が、足りない」
ミサは、冷静に分析した。
ならば、答えは、単純だ。
さらなる痛みを、投入する。
彼女は、ステッキの柄を、両手で握りしめたまま強く捻るようにする。
皮膚に棘が食い込み、肉に突き刺さる。
それがひねられて、皮膚と肉が避けて、抉れる、新たな強い痛み。
唇をかみ、その痛みに耐えながら、痛みを魔力として再び、放たれる攻撃。
先ほどよりも、明らかに太く、そして、禍々しい光を放っているっている矢。
ガギンッ!
今度は、少しだけ、手応えがあった。
核の表面に、ほんのわずか、髪の毛ほどの細さの、傷がついたように、見えた。
しかし、それだけで、破壊には、程遠い。
「まだ、足りない……」
焦りが生まれるが、なんとかそれを抑えながら、次に左手で、自らの喉元の薔薇のチョーカーを掴んだ。
そして、それを、無理やりに締め上げる。
気道が圧迫され、酸素が脳に行き渡らなくなる。意識が、ブラックアウトする寸前の浮遊感。
トゲが食い込む痛みが、まるで現実に彼女を引き留める役割をしていた。
さらに、右手で持った杖を、大事に抱えるようにしてもち、内股の姿勢で足でも挟み込むようにする。
彼女が、今、感じうる、ありとあらゆる痛みの全てを、最後の攻撃へと、注ぎ込む。
視界は、完全に、白く染まっている。
音も、聞こえない。
最後の、魔力の矢が、放たれた。
それは、もはや、矢ではなかった。
空間そのものを、焼き尽くさんばかりの、絶大な破壊エネルギーの奔流。
―――ゴガアアアアアアアアアアアンッ!
凄まじい轟音が、地下空洞全体を、揺るがした。
爆炎と、粉塵が、視界を覆う。
「……はぁ……はぁ……っ」
ミサは、全ての力を使い果たし、その場に崩れ落ちた。
全身から、血が流れ、もはや、どこが、どう痛いのかさえ、分からない。
ただ、やった、という、確信だけがあった。
あれだけのエネルギーだ。いくらなんでも、無傷では済むはずがない。
やがて、粉塵が、晴れていく。
ミサは、最後の力を振り絞り、天井を見上げた。
そして、絶望した。
硬い殻に覆われた、巨大な蕾は、無傷だった。
ただ、その周囲を飾っていた、水晶のような、小さな花弁が、数枚だけ、砕け散っているだけ。
そのガラスの美しくも、大きな花は、静かに、そこに、在った。




