平穏と、焦燥
システムの醜悪な真実を知ってから、数日が過ぎた。
ミサの日常は、表面的には何も変わらなかった。
施設の図書室で静かに本を読み、決められた時間に食事を摂り、夜になれば自室のベッドで規則正しく眠りにつく。
しかし、その内面は静かな変質を遂げていた。
彼女の頭脳は、今や、この世界そのものを一つの巨大なパズルとして認識し、その法則性を解き明かすための常時稼働する観測装置と化していた。
全てのきっかけは、あの尋問でトリリウムから引き出した、過去の魔法少女たちの断片的な記録。
強い少女は消耗して死ぬ。弱い少女はなすすべもなく死ぬ。逃げ出した少女も、結局は死ぬ。
そして、どんな死に方であれ、その最期には敵を打ち倒す結果に収束させられる《最終開花》という、絶対的な保険。
(……終わらせなければならない)
この不合理なゲームを、次の誰かでもない自分の手で。
そのためには、生き残らなければならない。
そして、勝たなければならない。
勝ち続けなければならない。
けたたましい警報が、街に鳴り響く。
ミサは、読んでいた本に栞を挟むと静かに立ち上がった。
施設の子供たちが怯えたように窓に駆け寄り、職員たちが避難経路の確認を始める。
その喧騒の中で、彼女だけが静寂を保っていた。
トリリウムが、彼女の足元でそわそわと身体を揺らす。
「ミサ! 来たよ!」
「ええ。行きましょう」
彼女の心にあったのは、恐怖だけではなく、冷たい闘志も含まれていた。
現場へと向かう足取りは、冷静だった。
しかし、その思考は、かつてないほど高速で回転していた。
――魔法少女は、死ぬ。
その事実がミサの頭をよぎり、最悪の事態を想定させる。
いくつかの戦闘パターンを脳内でシミュレートする。
その中でどうしてもちらつく「死」に、首を横に振るようにしながら。
しかし、現場に到着したミサは自らの目を疑った。
そこにいたのは、彼女の予測とは裏腹に、ごくありふれた、殻花だった。
前回戦った個体に比べれば、圧倒的に、弱く見える。
――もちろん、何も知らない状態であれば、脅威であることは間違いないのだが。
「……これ、ですか?」
「うん! よかったじゃないか、ミサ! これなら、君なら楽勝だよ!」
トリリウムは、無邪気に喜んでいる。
ミサは、戸惑いながらも変身を遂げた。甲を貫く痛み。
彼女は、まず、最小限の痛みで小さな魔力の矢を生成。
殻花の関節部と思わしき箇所を、正確に撃ち抜いた。
狙いすましたかのように、避ける前にその矢が間接に刺さり、殻花がいたがる様子を見せる。
(さすがに、足りないか)
彼女は、即座に必要な威力、痛みを計算する。
ステッキを強く握りしめて、さらなる魔力を生成し、先ほどと同じ箇所へと向けて第二射を放った。
計算し、狙いすましたようなそれは、同じ関節部に矢が飛翔し、殻花を貫く。
怪物が苦悶の声を上げる隙に、さらに第三射を放てば、やがてその声も途切れ。
殻花は動かなくなり、少しすれば魔力の光へとなる。
戦闘は、数分で終わってしまう。アニメでみる戦闘シーンなんかよりもずっとあっさりした、短さ。
ミサの身体には、相手に与えられた傷なんて一つもない。
消費した魔力も痛みも、全てが彼女の計算通り、最小限に抑えられていた。
さらに、三日後に、そして五日後に、同様の殻花が出現した。
それも、ミサは、教科書通りに完璧に処理した。
戦闘というより作業と呼ぶほうが近しいと感じるほど。
トリリウムは、そのたび「すごいじゃないか、ミサ! 君なら、何体でも倒せるね!」と、喜んで、ミサをほめていたが、その言葉でミサの心は晴れなかった。
数日、とはいえ少しだけ期間が違うだけなのに、少し不安になる。
――少し、強かった気がする、という疑念がミサの心の片隅に残り続けていた。
◇
場所は、いつもの少し埃っぽい図書室。
西日が床に長い影を落とし、他の子の声が、部屋の外から聞こえる。
「トリリウム。あなたの記録の中で、最も出現した敵との戦力差が、絶望的だったケースについて教えてください」
ミサは、単刀直入に切り出した。
「絶望的だったケース?」
トリリウムは、少しだけ首を傾げた。彼の思考の中では、魔法少女がどうなったとしても、蝕花が討伐されている時点で、全ての戦闘は成功であった。
絶望というにはどれがいいのか、しばらく考えたような後、口を開く。
「うーん……ああ、そうだ。運が、最悪だった子はいたかな」
「運、ですか」
「そう。内気で、優しい子だったんだけどね」
トリリウムは、少しだけ、思い出すように語り始めた。
それは、彼にとって、数ある記録の中の一つに過ぎない、ただの過去のデータ。
「契約して、さあ初陣だ!って時に現れたのが、観測史上最大級の、山みたいなやつでさ」
その言葉に、ミサの背筋が、わずかに、強張った
。
「あの子、変身したはいいけど、怖くて、一歩も動けなかったんだ。で、そのまま、住んでたアパートごと、ぐしゃって」
トリリウムは、まるで、トマトを潰すような、無邪気で、残酷な擬音を口にした。
ミサは、その理不尽な「事故」の話を、無表情のまま聞き入れ、しかし静かに、少し震える声で、最も重要な点を尋ねた。
「その、山みたいなやつが出現する前に、何か、予兆は? 例えば、魔法少女が不在の期間が、長かった、とか」
「うーん……」
トリリウムは、記憶の記録を、辿る。
「確か、その時はしばらく敵も出てこなくて。勧誘がうまくいかないときで助かっていたんだけれど……魔法少女がいない期間が、半年以上は続いていたかなあ」
半年で、山。
長いけれど、そんなに長いわけでもない。
「……ありがとうございました。参考になりました」
ミサは、静かに、そして短く会話を打ち切る。
「あれ、もっと聞かなくていいのかい?」
トリリウムは驚いたように、ミサに尋ねる。
けれど、それ以上聞く気もしなかった。
聞かなければよいとも思ってしまった。
その日を境に、ミサの日常は、静かな地獄へとその姿を変えた。
◇
平穏。
あまりにも、平穏すぎた。
一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎても、蝕花は、全く、姿を現さなかった。
街は平和そのものだった。施設の子供たちは楽しそうに笑い、職員たちは穏やかな日常を享受している。
その、誰もが幸福な光景の中で、ミサだけが、見えない時限爆弾の秒針の音を聞いていた。
今この瞬間も、蝕花が、どこかで、静かに、巨大に育っているのではないか。
平穏が続けば続くほど、次に現れる敵はとてつもない怪物になる。
そして、自分が《最終開花》を使わざるを得なくなる可能性が、高まっていく。
「何もない」という事実が、彼女の首を、ゆっくりと、やさしく、締め上げていた。
彼女は、眠れない夜を過ごすようになった。
ベッドの中で目を閉じても、思考は、ただ、最悪の可能性を計算し続ける。
昼間、読書をしていても、その内容が頭に入ってこない。
黒い文字の羅列が、ただ、目の上を滑っていくだけ。
時折、彼女は無意識のうちに、自らの右手甲を、左手の指でなぞっていた。
変身の時に、あの黒い棘が貫く、その一点を。
今はもう、傷跡すら残っていない滑らかな皮膚。
しかし、彼女の指先は、そこに、存在しないはずの穴の感触を、幻の痛みを、確かに感じ取っていた。
その、幻の痛みだけが、この、狂いそうなほどの平穏と静寂の中で、自分がまだ魔法少女であり、戦いの渦中にいるのだという、現実感を与えてくれていた。
◇
悪夢のような平穏は、ある日の午後も、まだ、続いていた。
けたたましい警報は、鳴らない。街は平和そのもの。
しかし、その静寂こそが、ミサの精神を、ナイフのように、じわじわと削り取っていた。
(……なぜ、何も起きない?)
彼女は、自室で、トリリウムに、苛立ちをぶつけるように、問い詰めていた。
「トリリウム、この異常な静寂を、どう説明するのですか?」
「うーん……僕にも分からないなあ!」
トリリウムは、悪びれもなく、答えた。
「でも、まあ、たまにあることだよ。ほら、庭の雑草だって、ちゃんと、綺麗に、根っこから抜いておけば、しばらくは、生えてこないだろう? ちゃんと蝕花が出てくれば……ある程度形になってくれたり、見つけられるなら分かるから平気だよ!」
彼は、慰めるように続けた。
「君が、手早く、完璧に倒してくれてたからじゃないかな? おかげで、綺麗になって、発生しにくくなっているんだよ、きっと!」
それは、トリリウムなりの、ただの気まぐれな慰めだった。
魔法少女が長く、複数の敵を倒していると現れるまで期間が空くのも、事実ではあった。
ただ、その何気ない一言が、ミサの頭脳に、天啓のような、そして、絶望的な閃きを与えてしまった。
(……土壌……?)
(……根っこ……?)
(……そうだ。もし、そうだとしたら……?)
(もし、蝕花が、地上ではなく、見つかりづらい場所で、ゆっくりと何かをして、成長しているだけだとしたら?)
一体しかいないはずの蝕花に現れない。
それは、平和になったからではない。
ただ、見つかりづらい場所にいるだけだったとしたら?
その思いを、裏付けるかのように、テレビのニュースが、小さいけれど決定的な糸口を、彼女に与える。
『……市内の一部地域で、原因不明の微量な水質悪化が報告されています。また、旧地下鉄開発区域周辺での、ごく微弱な、地盤沈下の兆候も……』
水。
地下。
ミサは、そのニュースを見ながら、ふらり、と、壁に手をついて立ち上がった。
もう、まともに眠れたのはいつだっただろうか。
身体が、鉛のように、重い。
しかし、彼女の瞳には、これまでなかった、病的なまでの、ギラギラとした光が宿っていた。
それは、探究心などではない。
ただ、この、終わりの見えない拷問から、一刻も早く解放されたいという、焦燥の色だった。
そして、期間が空いてしまったということからの絶望でもあった。
彼女は、振り向き、トリリウムを、睨みつけた。
その瞳は、もはや、科学者のものではない。
ただ、自分の命を蝕む病巣の在り処を、ようやく突き止めた患者のそれだった。
「トリリウム」
その声は、自分でも驚くほど、かすれていた。
「この都市の、全ての地下、水道などを調べてくれませんか」
まだただ発生していなければいいと、思いながら。




