魔法少女と、合理性
児童養護施設「ひだまりの家」の図書室は、いつも西日の匂いがした。
古紙と、窓の外のプランターで育てられている花の、少しだけ埃っぽい匂い。
霧崎ミサは、その匂いが好きだった。
窓際の席で、本の世界に沈んでいる時。埃っぽいにおいの中の、別の世界。
それを読んでいるのが、彼女にとっての本当の日常だった。
ページをめくる音、遠くで聞こえる子供たちのはしゃぎ声、壁にかかった時計の秒針の音。
その全てが、彼女の世界を構成する、予測可能な、安定した要素だった。
だから、それが現れた時、彼女はまず、その予測ができない事象に対して静かな警戒心を抱いた。
「こんにちは! 君が、霧崎ミサちゃんだね?」
彼女が読んでいた、分厚い本の開いたページの上に、ぽすんと音もなく、フェルト生地のマスコットが着地した。
大きなガラス玉みたいな瞳に、刺繍されたようなにこやかな口元。
ミサは、すぐには顔を上げなかった。
まず、その存在を、視界の端で観察する。
質量を感じさせない着地の仕方。
音声を発しているにも関わらず、口が物理的に動いていないこと。そして、自分の名前を知っていること。
(……正体不明の、自律行動可能な、情報収集能力を持つ、小型の存在)
数秒でそこまで分析すると、彼女は静かに本を閉じて、感情の読めない瞳でそれを見つめた。
「……はい、そうですけど。何か、ご用件ですか?」
その少女らしからぬ事務的で大人びた対応に、トリリウムは一瞬だけその刺繍の口元を引きつらせた。
「え、ええと……僕はトリリウム! 君を探しに来たんだ。君に、この世界を救う、特別な力を持つ魔法少女になってほしいんだよ!」
トリリウムは、これまでに何人もの少女を魅了してきたであろう、自信に満ちた甘い声でそう言った。
フリルのついた可愛い衣装、キラキラのステッキ、みんなの笑顔を守る選ばれたヒロイン。
そうやって、あの特別な「魔法少女」になれるのだ、と。
しかし、ミサの反応は彼の予想とは全く違っていた。
当然、拒否されることもある。 むしろ多いくらいでもある魔法少女の勧誘。
彼女は驚きも、喜びもせず、ただ、目の前の現象を分析するように、静かに質問を始めた。
「魔法少女になると、どんな服を着るのですか?」
その問いは、お洒落に興味のある普通の女の子がするような、純粋な響きを持っていた。
「もちろん、君にぴったりの、とっても可愛い衣装だよ!」
トリリウムは、ようやく少女らしい反応が返ってきたことに安堵し、得意げに胸を張る。
「その服はどういう仕組みで出現するのですか? 魔法のエネルギーが質量を持つ物質へと変換されるのですか?」
「え、ええと……まあ、そんな感じかな!」
「そのエネルギーはどこから来るのですか?」
「き、君の『世界を守りたい』っていう、強い気持ちさ!」
ミサは、こてん、と小さな子供がするように首を傾げた。
その仕草はどこまでも無垢に見えたが、その瞳は、まるで実験動物を観察する科学者のように冷徹な光を宿していた。
「気持ちで、服が? 不思議ですね。じゃあ、その気持ちが弱くなったら服は消えたりするんですか? 戦っている最中に、もし『怖い』って思ったら突然裸になっちゃうんですか?」
「そ、そんなことはないよ! 一度変身すれば、大丈夫さ!」
トリリウムの背中に、冷たい汗のようなものが流れる感覚がした。
この子は、何かがおかしい。質問の角度が普通じゃない。
「変身すれば、武器も出てくるんですよね?」
「そうだよ! とっても素敵な武器さ! 魔法少女といえば、という感じのかわいらしいステッキだよ!」
「武器は、ステッキしかないのですか? 例えば、剣とか、弓とか、銃とか、もっと殺傷能力の高そうなものは?」
「え、ええと……ステッキだけ、だね!」
「なぜですか?」
ミサは、純粋な子供がするように首を傾げた。
「敵を倒すのが目的なら、より効率的で遠距離から安全に攻撃できる武器の方が合理的です。なぜ、わざわざ、接近戦を強いるような、ステッキという、非効率な形状に限定されているのですか? 何か、特別な理由があるのですか?」
「そ、それは……! そういうもの、というか……ステッキは、その……君の身体と、魔法のエネルギーを、繋ぐための、アンテナみたいなものだから……! それがないと、上手く、コントロールが……!」
「繋ぐ、ですか」
ミサの瞳が、キラリと、冷たい光を宿した。
「面白い表現ですね。では、そのアンテナとやらは、どうやって身体と繋ぐのですか?」
「う……そ、それは、変身すれば、特別な衣装になるから、その……」
「なるほど。つまり、繋ぐためには、変身後の特別な衣装とステッキの両方が、必要不可欠である、と。そういうことですね?」
ミサは、まるで刑事のように、トリリウムの言葉尻を捉え、一つ一つ、事実確認を行っていく。
「……まあ、そうだね」
トリリウムは、もはや、頷くことしかできなかった。
「では、そうですね」
ミサは、静かに、しかし、有無を言わせぬ口調で、言った。
「その、変身後の特別な衣装と、ステッキの実物を、今、ここに出せますか?」
「……は?」
トリリウムは、完全に意表を突かれた。
「だ、ダメだよ! そんなこと、できるわけ……!」
その狼狽した、あまりにも過剰な拒絶反応。
それを見た瞬間、ミサは、確信した。
(……何かある。見せたくない何かが、ただ魔法少女になる前だから、というだけではなく、何か)
ミサは、それ以上、直接的に見せろとは言わなかった。
ただ、純粋な好奇心を装い、角度を変えて、質問を続けた。
「……そうですか。残念です。では、せめて、どのような特徴があるのか教えていただけますか? 何か、衣装のモチーフになっているものはあるのですか? 魔法少女の定番だったりしますよね?」
「も、モチーフ?」
唐突な、子供らしい質問への転換に、トリリウムは、少しだけ安堵した。
「ああ、そうだよ! 薔薇さ! 深紅の美しい薔薇が、君の衣装のモチーフなんだ! とっても綺麗だよ!」
「薔薇、ですか」
ミサは、静かに、その言葉を反芻した。
そして、まるで図鑑で調べ物をするかのように、淡々と、次の質問を口にした。
「一般的な薔薇の花には、いくつかの特徴がありますね。美しい花弁、甘い香り、そして――」
彼女は、そこで一度、言葉を切り、トリリウムのガラス玉の瞳を、まっすぐに見つめた。
「その衣装や、ステッキにも、モチーフ通り、棘は、付いているのですか?」
その的確な一言に、トリリウムの刺繍の口元が、わずかに引きつる。
その、コンマ数秒の、しかし、決定的な反応を、ミサの目は、見逃さなかった。
矢継ぎ早に、しかしあくまでも冷静な推論が、トリリウムを追い詰めていく。
彼は、完全に言葉に詰まった。
目の前の少女は、ただ純粋な好奇心で質問しているようにしか見えない。
だが、その思考は、自分の吐いた嘘と、そこから生じる矛盾を、一つ一つ丁寧に拾い上げ、それを材料にして、論理の罠を構築していた。
トリリウムは、この少女の前では、嘘も、誤魔化しも一切通用しないと悟った。
ミサは、それ以上棘については追求しなかった。 代わりに、考えこみ始めて沈黙が流れる。
少しの沈黙の後、静かに、最後の問いを口にした。
「……分かりました。では、もし私が、この契約を断った場合、どうなるのですか?」
「え?」
「あなたは、次の候補者を探しに行きますよね?」
「もちろんだよ。魔法少女を見つけなければ敵が強くなっちゃうからね。 残念だけど、君がダメでも、代わりはいるから……」
トリリウムは、残念そうに、そしてどこか面倒そうに口にした。
「では、私はどうなるのですか?」
ミサは、静か続けた。
「私は今、あなたとの会話でこの魔法少女の根幹に関わる極めて重要な情報を、いくつか推論としてですが、手に入れてしまいました。私が、その情報を外部に話してしまう、広めてしまう可能性をあなたはどう処理するのですか?」
「……っ!」
トリリウムは、完全に、言葉に詰まった。
この少女は、自分の身の安全だけでなく、魔法少女のしくみという、ルールの部分まで思考を及ばせている。
「魔法少女なんて、物語で聞いたことしかなかった」
「……まさかとは思いますが」
ミサは、冷徹な瞳で、トリリウムを見つめた。
「契約を結ばなかった候補者の記憶を処理するなんていう、非人道的な機能があなたに備わっていたりしませんよね?」
その、あまりにも的確な、鎌をかけるような一言。
トリリウムの沈黙。
その沈黙こそが、何より雄弁な肯定の答えだと、ミサは理解した。
「……なるほど。断れば記憶を消され、全てはなかったことに。そして、あなたは、何も知らない次の少女の元へと。」
ミサは、静かに立ち上がった。
「なります。魔法少女に」
「……どうしてだい?」
トリリウムの声には、純粋な困惑が滲んでいた。
「君は、システムの危険性もほとんど知ったはずなのに。なのになぜ、自らその役目を?」
「私は、不合理が嫌いなのです」
ミサの瞳に、初めて、静かな闘志の光が宿った。
「私がここで記憶を消されてしまえば、次の少女があなたの都合の良い話に騙されて、ろくに仕様も理解しないまま、おそらく何か悪意のある魔法少女の衣装を着せられることになる。」
彼女はこの契約が、相手の言うことを鵜呑みにすれば、極めて不利で、危険なものであると感じ取っていた。
「私がこの役目を引き受ければ、少なくとも、次の、何も考えずに契約してしまうような少女が、不利な条件で戦場に立たされることはなくなる。そして、私ならば、この不合理そのものを終わらせることができるかもしれない。その可能性に賭ける価値はあります」
それは、正義感、自己犠牲といったものではなかった。
彼女はただ、目の前にある、最も効率的で最も合理的選択をしただけ。
自分が魔法少女となることで、無意味に、無知なまま、危険な盤上に立たされる魔法少女の発生を防ぐために。
「……君は、本当に変わってるね。わかったよ。君との契約を、正式に結ぼう」
トリリウムはあきれたような口ぶりで、契約を結んだ。




