アカネと、ハルナ
夜の静寂を、か細い呼吸音だけが、支配していた。
アスファルトの上に、二つの、もはや原型を留めないほどに壊れた、少女の形をしたものが転がっていた。鉄と血の匂いが、夜の冷たい空気の中で、不快に混じり合っている。
一つは、右腕の肘から先を失い、自らが流したおびただしい量の血だまりの中に、半分沈むようにして倒れている。深紅のドレスをまとった、魔法少女、橘 ハルナ。
その胸は、浅く、不規則に上下していたが、その動きは、まるで燃え尽きる寸前の蝋燭の炎のように、今にも消え入りそうだった。
その意識は、大量出血と激痛の彼方へと、とうに沈んでいた。
もう一つは、そのハルナに跨るようにして、黒い刃の生えた腕を振り上げたまま、硬直していた。
人間でありながら、蝕花と化した、網原 アカネ。
その身体は、内側から湧き上がる「生存本能」と、カーテンの向こう側で悲鳴を上げ続ける「人間の心」とが壮絶な主導権争いを繰り広げ、まるで壊れた機械のようにガクガクと激しく痙攣していた。
しかし、その地獄のような拮抗も、永遠には続かない。
ハルナの胸元で微かに上下していた呼吸が、ふっと、糸が切れるようにその動きを止めた。
生命の灯火が、消える。
その、わずかな変化を、蝕花の生存本能は見逃さなかった。
天敵の、完全な機能停止。
アカネの瞳から、最後の人間としての理性の光が、ふっと消える。
そして、振り上げられていた刃が、今度こそ、一切の躊躇なく、既に動かなくなったハルナめがけて、確認作業のように振り下ろされた。
―――ザシュッ。
鈍い、水音のような音がした。
黒い刃は、深紅のドレスを容易く貫き、ハルナの華奢な胸の中心に深々と突き刺さる。
ただ、冷たくなっていく肉塊に、新たな傷が一つ加えられただけ。
身体が最期に、ビクンと跳ねる。
勝敗は、決した。 その、瞬間だった。
ハルナの身体そのものが、変貌を始めた。
胸を貫かれた傷口から。
失われた右腕の断面から。
全身のありとあらゆる場所から皮膚を突き破り、血と肉が混じり合った、おびただしい数の赤黒い茨の蔓が、まるで堰を切ったように溢れ出したのだ。
《最終開花》
魔法少女の生命が尽きる瞬間に起動する、最期の魔法。
ハルナの純粋な助けたいという気持ちとは、かけ離れた変貌だった。
「―――!?」
アカネの姿をした怪物は、本能的な恐怖に駆られ、ハルナの胸から刃を引き抜こうとした。
しかし、遅い。
溢れ出した無数の蔓は、槍のようにアカネを貫くのではなく、まるで久々に再会した親友を二度と離さないとでも言うかのように、その異形の身体を、優しく、しかし、抗うことのできない力で包み込んでいった。
それは、ハルナの、最後の、そして唯一の攻撃。
蔓は、アカネの身体に、ぎちり、ぎちりと、食い込んでいく。
ずっと一緒いいたい、そんな純粋な気持ちが歪んで現れたように。
黒い刃が、その圧倒的な圧力に耐えきれず、根元から砕け散る。
アカネの口から、怪物のものか、少女のものか、判別のつかないくぐもった悲鳴が漏れた。
ハルナの蔓は、アカネを抱きしめる。
アカネの身体が、骨が砕ける音を立て、原型を留めないほどに歪んでいく。
それでも、ただ、ひたすらに、優しく、強く、抱きしめ続ける。
やがて、二つの醜い肉塊は完全に一つに融合した。
その境界は、もはや誰にも分からない。
その、歪な塊の中心から、おびただしい量の血が、噴水のように噴き出した。
そして、最後に。
二つの命が完全に溶け合った、その肉塊の中心に、ぽつり、と。
一輪だけ、深紅の薔薇が静かに咲いた。
静寂。
その薔薇は、その痛々しいほどに美しい姿を保っていた。
やがて、一番外側の花弁から、はらり、と、魔力のチリとなって崩れ始めた。
一枚、また一枚と、花弁が崩れ、蔓が解け、融合した二人の亡骸も、全てが光の粒子へと変わっていく。
鉄と血の匂いが、夜風に流されて消えていく。
アスファルトに刻まれた無数の傷跡も、まるで幻だったかのように、その輝きの中に溶けていく。
やがて、全てが消え失せ、そこには何も残らなかった。
ただ、どこからか転がってきたのか、ゲームセンターのコインが一枚だけ、月明かりを浴びてキラリと光っていた。
少し離れた場所で、新しいトリリウムが現れる。
空っぽになった空間を、ガラス玉のような瞳で見つめていた。
彼は、一つ、小さくあくびをすると、呟いた。
「……さて。また、次を探さなきゃ」
その声は、瓦礫の山に虚しく響き、そして、すぐに、風に掻き消された。




