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希望と、喪失

 涙で滲む視界の向こうで、アカネが、信じられないものを見るような、絶望しきった顔で自分を見つめている。


 違う。


 何かが、おかしい。


「ト、トリリウムさん……! 敵は、どこ……!? アカネが、危ないんじゃ……!」


 ハルナは、パニックに陥りながら、肩の上のトリリウムに問いかけた。


 しかし、トリリウムは、悪びれもせず、残酷な真実を告げた。


「ん? だから、言ったじゃないか」


 彼は、その小さな前足で、目の前のアカネを、指し示した。


「見ての通り、危ないじゃないか。彼女が、君が倒すべき、最後の蝕花()だよ」


「……え……?」


 ハルナの思考が、完全に停止した。


 アカネが、蝕花?


 じゃあ、さっきのアカネが危ないっていうのは……。


 その、ハルナの混乱を肯定するかのように、目の前のアカネの身体が、異様な変貌を始めた。


 ゴキンッ!


 アカネの右手の拳から、硬い嫌な音がした。


 指の関節から黒曜石の爪が伸びるように、鋭利な刃が、一本、また一本とゆっくりとせり出してくる。


 それは、ハルナが、公園の暗闇で見た、あの忌々しい刃と全く同じものだった。


「……うそ……」


 ハルナの唇から、か細い声が漏れる。


 アカネが、私を襲った、あの怪物と同じ……?


 そんなことあるはずがない。


 アカネが、何かを、苦しそうに呟いている。


 その瞳は、まだ、ハルナが知っている親友の瞳だった。


 恐怖と、後悔と、そして、どうしようもない絶望にぐちゃぐちゃに歪んでいる。


 彼女は自分の身体の中で起きているこの悍ましい変化に、必死に抵抗している。


「アカネ! しっかりして! アタシだよ、ハルナだよ!」


 ハルナは、泣きながら叫んだ。


 アカネは、その声に、はっとしたように顔を上げた。

 そして、自分の腕から生えた黒い刃と、恐怖に引きつるハルナの顔を、交互に見比べた。


 その瞳に、ある、壮絶な決意の色が浮かんだのを、ハルナは見た。


 アカネは、黒い刃が突き出した右腕を、ゆっくりと、自らの首筋へと向けた。


「アカネ!?」


 ハルナが、悲鳴のような声を上げる。


「やめて! 何するの!?」


 アカネは何も答えなかった。


 ただ、泣きそうな、でも、どこか吹っ切れたような顔で、ハルナに微かに笑いかけた気がした。


 彼女は、覚悟を決めて刃に力を込めた。


 しかし。


「……な……?」


 アカネの腕が、見えない力に阻まれているかのように、刃の先端は、彼女の首の皮膚の数ミリ手前で、ぴたりと止まっていた。


 アカネ自身も、なぜ自分の腕が動かないのか分からず、驚愕と絶望の表情を浮かべている。


「……なんで……動け……動けよッ!」


 彼女は、全ての意志の力を込めて、腕を動かそうとする。しかし、その腕は、ガクガクと痙攣するだけで、それ以上、一ミリも、自分自身を傷つけることを拒絶していた。


 死ぬことすら、許されない。


 その絶対的な事実が、アカネの最後の希望を、そして、彼女の人間としての抵抗の糸を粉々に砕いた。


「……あ……ああ……」


 アカネの瞳から、光が急速に失われていくのが、ハルナにもはっきりと見えた。


 ついさっきまで宿っていた、苦悩の色が、まるでインクが水に溶けるように薄れていく。


 そして、その代わりに、底なしの冷たい闇が、瞳の奥から湧き上がってくる。


 変貌は、加速した。


 右腕だけではない。左腕の皮膚が内側から盛り上がり、新たな刃が突き破って血飛沫と共に生えてくる。


 肩甲骨の間から、さらに二本の、鎌のような刃が皮膚と肉を突き破って天を突く。


 その姿は、もはやハルナの知る親友ではない、異形の怪物。


 叫びは、もう、届かない。


 ハルナは、後ずさった。


 怖い。

 逃げたい。

 でも、逃げられない。


 目の前にいるのは、紛れもなく、自分の、たった一人の親友なのだから。

 トリリウムが、ハルナの肩の上で、冷徹に告げる。


「もう、無駄だよ、ハルナ。彼女の意識は、もうない。そこにいるのは、君を殺すためだけに動く、ただの蝕花だ」


「……そんなこと、ない……!」


 ハルナは、泣きながら、首を横に振った。


「アカネは、まだ、絶対に、どこかに……!」


 しかし、その願いを嘲笑うかのように。


 アカネの姿をした怪物が、大地を蹴った。


 鋭い刃が、月明かりを浴びてキラリと光る。


 それは、紛れもない殺意の閃き。


 ハルナは、咄嗟に、右手に握られたステッキを構えた。


 甲を貫く棘が、手のひらに刺さる棘が、ズキリと痛む。


 その痛みが、彼女に残酷な現実を突きつけていた。


 自分は、魔法少女。

 そして、目の前にいるのは、自分が倒さなければならない、敵。


 たとえ、その姿が、昨日まで笑い合っていた、親友の形を、していたとしても。


 刃が、迫る。


 彼女の身体が、勝手に動いた。ステッキを、盾のようにして、迫りくるアカネの刃を、受け止めていたのだ。


 キンッ!


 金属同士が打ち合わされる甲高い音が、静まり返った夜の底で木霊した。


 ハルナの身体を襲ったのは、単なる痺れるような衝撃だけではなかった。それは、複合的な激痛の爆発だった。


 ステッキの柄を叩きつけられた衝撃は、彼女の右手甲を貫く一本の黒い棘を、さらに深く肉の奥へと押し込み、骨がきしむ、嫌な感触と共に神経を直接焼かれるような激痛が走る。


 同時に、衝撃に耐えるために無意識に握りしめられた掌には、グリップに仕込まれた無数の小さな棘が、容赦なく突き刺さった。

 血が、じわりと滲み、グリップと掌が、ぬるりとした感触で一体化していく。

 砕かれる衝撃と、内側から貫かれる鋭痛。


 ハルナは、その二重の地獄に悲鳴を噛み殺しながら、目の前の異形と化した親友を、涙の滲む瞳で見据えていた。


 アカネだったものの身体は、獣のような低い姿勢で、次なる攻撃の機会を窺っている。


 その瞳には、かつてハルナが知っていた快活な光の欠片もなく、ただ、獲物を仕留めることだけを目的とした、冷徹で無機質な光だけが宿っていた。


(本当に、アカネじゃ、ないのだろうか)


 信じたくないという思いが、まだ心の大部分を占めている。これは何かの悪い夢で、目を覚ませばいつものように笑う、あのアカネがいるのではないか。

 しかし、腕に伝わる痛みの生々しさが紛れもない現実なのだと、ハルナに繰り返し突きつけていた。


「アカネ! 目を覚まして!」


 叫びは、夜の闇に虚しく吸い込まれていく。

 ハルナは、じりじりと後ずさった。戦うなんてできない。アカネの身体を、この手で傷つけることなど、考えただけでも、心臓が凍りつきそうだった。


 しかし、アカネの姿をした怪物は、ハルナの葛藤に一瞬の猶予も与えてはくれなかった。

 今度は、一本の刃だけではない。両腕、そして身体から生えた何本もの黒い刃が、まるで巨大な捕食者の顎のように、嵐の如き勢いでハルナへと殺到する。


「ひっ……!」


 ハルナは、もう、受け止めることなどできなかった。


 必死に、その場から飛びのき、アスファルトの上を無様に転がりながら、死の斬撃を避け続ける。


 数週間前の悪夢が、より鮮明な形で、より絶望的な相手と共に目の前で再現されていた。


 痛みと引き換えに魔力によって強化された、常人を超えた身体能力で、かろうじて彼女は命を繋ぎとめているに過ぎなかった。


 ガキンッ! ギャリリッ!


 ハルナが先ほどまでいた場所のアスファルトが、鋭い刃によっていとも容易く切り裂かれていく。


 その一撃一撃が、もし自分の身体に当たっていたら。


 そう想像するだけで、全身の血が逆流するような恐怖が彼女の思考を麻痺させた。


(怖い、怖い、怖い……!)


 しかし、その極限の恐怖の中で、彼女の研ぎ澄まされた感覚は、一つの微かな違和感を捉え始めていた。


 敵の動きは速く、鋭い。


 それは間違いない。


 だが、その動きの節々に、ぎこちなさが混じっている。


 まるで、初めて使う道具の扱いに、身体がまだ馴染んでいないかのように。


 時折、攻撃の制御が甘く地面に突き刺さって、硬直が生まれている。


(もしかして……)


(アカネが、この身体の中で、抵抗している……?)


 それは、あまりにも都合のいい、淡い希望。


 もし、まだアカネの意識が残っているのなら、きっと元に戻せる方法があるはずだ。

 

 それは淡い希望だったが、ハルナの攻撃を躊躇させるには十分すぎるものでもあった。


「ハルナ! 攻撃するんだ!」


 肩の上で、トリリウムが焦れたように叫ぶ。


「今なら、まだ、君でも勝てる! あの身体はまだ不完全だ! 早く、ステッキを握りしめて魔力を撃つんだ!」


 魔力を撃つ。それは、アカネを攻撃するということ。


「……できない……」


 ハルナは、泣きながら首を横に振った。


「だって……アカネなんだよ……!」


 痛みではなく、アカネを思う優しい気持ち。


「甘いことを言っている場合じゃない!」


 トリリウムが、声を荒らげる。


「君がやらなければ、君が死ぬだけだ! それでいいのかい!?」


 その言葉は、ハルナの心を、深く抉った。


 死にたくない。


 でも、アカネを傷つけたくない。


 その、決して両立することのない、矛盾した感情の板挟みで、ハルナの動きがほんの一瞬だけ鈍った。


 その隙を、怪物は見逃さなかった。右腕を鞭のようにしならせて、ハルナに迫る。


「しまっ……!」


 ハルナが咄嗟の防御として構えた、咄嗟にステッキに勢いよく叩きつけられる。


 ―――ゴガァンッ!


 しかし、その衝撃は、ハルナの想像を遥かに超えていた。


 それは、ただの斬撃ではなかった。

 怪物の、全ての体重が乗った渾身の殴打。


 痛みで強化されていたとはいえ、その理性のない一撃は到底受け止めきれるものではなかった。


 その殴打が、彼女の腕からステッキを離そうとする。


 そして、地獄が始まった。


「―――あああああああああああああああああっっっ!!!」


 ハルナの喉から、人間が発するものとは思えない、絶叫が迸った。


 皮膚が、裂ける。


 肉が、抉れる。


 手首を縛っていた茨が、腕の皮膚と筋肉をまるで果物の皮を剥くように、ズタズタに引き裂いていく。


 肘の近くまで、その無慈悲な裂傷は達した。


 そして、最後に、甲を貫いていた逆さ針の棘が骨と腱を無理やり引きずり出しながら、肉塊ごともぎ取られた。


 数メートル先のアスファルトに、カラン、と乾いた音を立てて転がったのは、魔法少女の象徴である、あの黒いステッキ。


 そして、そのグリップには、彼女の右手首から先が、まだ、握りしめられた形のまま、付着していた。


 ハルナの右腕。その、肘から先には、もう何もなかった。


 ただ、引きちぎられた断面から、噴水のように、おびただしい量の血が、噴き出しているだけだった。


 あまりの激痛と、自らの身体の一部が無くなったという、理解を超えた惨状に、ハルナの思考は、完全に焼き切れた。


「……あ……あ……」


 声も、出ない。


 ただ、口から、血の泡を吹きながらその場に崩れ落ちる。


 霞む視界の中、ハルナは、自分にゆっくりと近づいてくる、アカネの姿を見た。


 その手には、ハルナの血が、べっとりと付着している。


 怪物は、とどめを刺すために、その刃を、ゆっくりと、振り上げた。


(……ああ、私、死ぬんだ)


 恐怖と、痛みと、そして、親友に殺されるというあまりにも悲しい運命。


 その全てが、ハルナの心を絶望の色に染め上げていく。


 もう、何も考えられない。


 ただ、痛い。怖い。


 助けて、アカネ―――。


 その、心の叫びが、奇跡を呼んだのか。


 振り上げられた刃が、ハルナの喉元、数センチ手前で、ぴたりと止まった。


 アカネの姿をした怪物が、まるで見えない何かと戦うかのように、ガクガクと、全身を痙攣させていた。


「……ぅ……あ……」


 怪物の口から漏れた、苦悶の声。


 その瞳に、一瞬だけ。 


 ほんの一瞬だけ、ハルナが知っている、親友の光が宿った気がした。


 その光は、まるで「ごめん」と、謝っているように見えた。


 ハルナの唇に、微かな、本当に、微かな笑みが浮かんだ。


(……なんだ。やっぱり、アカネじゃん……)


 そして、彼女の意識は、完全に闇に沈んだ。

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