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ひまわりと、黒鉄

 トリリウムとの契約を交わしたあの日を境に、ハルナの日常は、静かにその姿を変えていった。


 昼間は、友人たちの見舞いを受け、リハビリに励む――模範的な患者。


 友人が来てくれるのはうれしかった。

 けれど、その笑顔の裏で、これから自分が背負う運命の重さに、胸が軋んでいた。


 うれしさをごまかすように。

 秘密を守るために。


 彼女は、それでも笑顔で「順調です」と言い続けた。


 そして、夜。


 両親が帰り、病室が再び静寂に包まれると、どこからともなくトリリウムが現れ、ハルナだけの秘密の講義が始まるのだ。


 そんな、不思議な二重生活はハルナに魔法少女になったことを実感させていた。


「魔法少女の力はね、君の『守りたい』っていう、優しい気持ちが源になるんだ。だから、君は、誰よりも強い魔法少女になれる素質があるんだよ」


 トリリウムは、ハルナが抱く恐怖――あの夜の悪夢――を巧みに和らげ、代わりに選ばれた存在であるというささやかな誇りを彼女の心に植え付けていった。


 ハルナは、震える手でそれをノートに書き留めた。


 怖い。


 戦う――その言葉を思うだけで、指が震える。


 ノートの字が波打つ。


 でも、やらなければならない。アカネを、守るために。


 そのアカネが、目を覚ましたのは、ハルナが契約を結んでから三日後のことだった。


 知らせを聞いたハルナは、リハビリもそこそこに、アカネの病室へと駆けつけた。


「アカネ!」


「……ハルナ……?」


 ベッドの上で、ゆっくりと身を起こす親友の姿。その瞳に、いつもの光が戻っているのを見て、ハルナは心の底から安堵した。


 二人は、たくさんの話をした。お互いの怪我のこと、これからのこと。


 おそるおそる廃工場での出来事を尋ねると、アカネは少し照れくさそうに笑って答えた。


「……まあ、ちょっとな。アタシが悪者をやっつけといたから、もう大丈夫だ」


 その笑顔は、ハルナがずっと見たかった――太陽みたいな、あの笑顔だった。


 アカネが、また誰かのために無茶をして、それを「ヒーローごっこ」みたいに話している。


 それだけで、ハルナの胸はいっぱいになった。


(……よかった。いつものアカネだ)


 彼女は、それ以上、深く詮索するのをやめた。


 自分の秘密――魔法少女になったこと――を、喉まで出かかった言葉で飲み込む。


 トリリウムの「秘密だよ」という約束が、重くのしかかっていた。


 ◇


 やがて、まずハルナが退院し、その数日後、アカネも退院した。


 アカネは学校にも顔を出すようになり、世界はまるで何事もなかったかのように元に戻った。


 あの日々が悪い夢だったかのように、平穏な時間が流れていく。


 アカネは、まるで大きな責任から解放されたように、以前より快活になった。


 授業中は相変わらず居眠りをしているときもあるけれど、休み時間になればくだらない冗談でハルナを笑わせる。


 放課後になれば、「よっしゃ、遊びに行くぞ!」と、ハルナの腕を強引に引いて街へと繰り出す。


 しかし、ハルナは、その完璧に見える日常の中に、ほんのわずかな、気のせいかもしれないほどの、微かな違和感を拭えずにいた。


 アカネは、笑っている。でも、その笑顔が、時折、ふっと、何かを確かめるように、自分の右手へと向けられることがあるのだ。


 まるで、そこに、自分にしか見えない何かが、まだ残っているかのように。


(……アカネ、本当に、もう大丈夫なのかな……)


 病院で話しただけでは、まだ、足りない。


 聞きたいことは、あった。


 でも、今の、やっと取り戻したこの平和な日常を、自分の不安で壊してしまうのが、怖かった。

 アカネが「大丈夫だ」と言うのなら、それを信じるしかない。


 それが、親友として、自分にできる、唯一のことだと思った。


 その日は、ハルナは塾に行き、一緒に帰っていなかった。


 どこか、胸がざわつく。


 その帰り道、家に帰らずに、どうしてかアカネに会いたい気持ちで、ゲームセンターへの道へと向かう。


 回り道になるけれど、今ならちょうど会えるかもしれない。


 連絡だけじゃなくて、なぜかちゃんと会いたくなった。


 会えなかったら会えないで、それでもいいから、と。


「――アカネ?」


 その向かう途中、会いたかったアカネが、道の真ん中で、立ち尽くしていた。


 ただ、自分の右手を、じっと、見つめている。


 その横顔は、ハルナが今まで見たこともないほど、狼狽した様子で、恐怖と染まっていた。


 ハルナが声をかけると、アカネは弾かれたように顔を上げた。


「こんなとこで、どうしたの? ぼーっとしちゃって……顔、真っ青だよ? 大丈夫?」


 心配になって、ハルナは、彼女の顔を覗き込んだ。


「……あ、いや……なんでもねえよ」


 アカネは、咄嗟に右手をポケットに隠した。その仕草が、ハルナの心に小さな棘のように引っかかった。


「そっか……。でも、無理しちゃだめだよ。アカネ、退院する前くらいから……なんか、変だから」


 ハルナは、意を決して口を開いた。


 伝えたいことがある。聞きたいことがある。


 トリリウムのこと。魔法少女のこと。そして、アカネが、本当に危ないのかどうか。


 しかし、言葉が、喉の奥でつかえて、出てこない。


 今、それを口にしてしまえば、かろうじて保たれている親友との関係が壊れてしまうような気がした。


「ねえ、アカネ。アタシ……」


 言いかけた、その時だった。


「――見つけたよ」


 声がした。


 ハルナの肩に、ぽすん、と軽い衝撃。見ると、そこに、トリリウムが乗っていた。


 目の前で、アカネの顔から、さっと血の気が引いていくのが、分かった。


「ト、トリリウムさん……!」


「アカネ……? お前、そいつと、知り合い……なのか?」


 アカネの声が、震えている。


 ハルナは、混乱した。どうして、アカネが、こんなに動揺しているのだろう。


 物語の歯車が、今、静かに、そして、決定的に、噛み合った。


 三人の視線が、交錯する。


 親友への心配と疑念を募らせる、ハルナ。


 アカネが廃工場で倒れていたことと、何か関係があるのだろうか。

 だとしたら、なぜ、アカネは自分に何も話してくれないのだろう。


 疑念が、黒い染みのように、ハルナの心に広がっていく。


 その混乱を、トリリウムは、楽しむかのように見下ろしていた。


 彼は、アカネを一瞥すると、すぐにハルナに向き直り、かつてないほど切羽詰まった、焦った声で、早口に言った。


「ハルナ! 大変だ! 敵が、すぐそこにいる!」


「え……!?」


 ハルナは、トリリウムが指し示す方向――アカネの方――を見て、さらに混乱する。


 敵? どこに? アカネしかいないのに。


「君の親友、アカネちゃんが危ない! 彼女、蝕花の毒気にやられて、弱ってるんだ! このままじゃ、彼女、アレに喰われちゃうよ!」


 トリリウムの言葉は、嘘と真実を巧妙に織り交ぜていた。


 アカネが「危ない」のは事実。

 蝕花に「喰われ」かけているのも、内側から侵食されているという意味では事実だ。


 しかし、ハルナにはアカネの外側に、目に見えない強大な敵がいるかのようにしか聞こえなかった。


 親友のあの尋常ではない苛立ちも、危うげな雰囲気も、全てその「毒気」のせいなのだと、彼女は瞬時に納得してしまった。


 アカネが、何かを叫ぼうとして口を開く。


「ちが……アタシは……!」


 しかし、トリリウムは、その言葉を遮るように、さらに畳みかけた。


「時間がない! 今すぐ変身して、アカネちゃんを守るんだ! いいかい、心の中で強く願うんだよ。『アカネを、助けたい!』って!」


(アカネを、助けたい……!)


 親友の、青ざめた顔。


 目に見えない、強大な敵。


 このままでは、アカネが死んでしまう。


 その、トリリウムによって植え付けられた強烈な焦燥感が、ハルナの心に残っていたわずかな迷いを完全に吹き飛ばした。


 彼女は混乱しながらも、ただ純粋に目の前で絶望に顔を染めている親友を救いたいと、そう願った。


 その祈りが、引き金となった。


 深紅の光が、ハルナの身体を包み込む。


 それは、かつてアカネが経験した、希望に満ちたあの光。


「ハルナ! やめろ!」


 アカネが、叫びながら、光に包まれた親友へと手を伸ばす。


 しかし、その手は、不可視の壁に阻まれたかのように、届かない。


(――これが、魔法少女……)


 怖い。でも、これでアカネを守れるなら。


 ハルナは光の中で、固く目を閉じた。


 光が収まり、視界が晴れる。


 そして、右手に焼けるような鋭い痛みが走った。


「いっ……ああ……あああああああっ!」


 思わず、悲鳴が上がる。


 見れば、自分の右手甲を、一本の黒い棘が無慈悲に貫いていた。


 涙で滲む視界の向こうで、アカネが信じられないものを見るような、絶望しきった顔で自分を見つめていた。


 違う。


 何かが、おかしい。


 トリリウムさんは、言っていた。敵は、蝕花は、一体しかいないって。


 そして、その敵からアカネを守るために、自分は変身したはず。


 それなのに、どうして。


 どうして、アカネはそんな顔をするの?


 まるで、アタシのせいで、世界が終わってしまったかのようなそんな顔を。


 ハルナは、何も理解できていなかった。


 理解しようとするのを拒んでいた。


 ただ、これから始まる物語が、自分が夢見ていたようなきらきらしたものでは、決してないということだけをその身を苛む痛みと共に予感していた。

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