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弱さと、守りたい気持ち

(たちばな)ハルナの日常は、ここ数週間、薄い灰色の紗を通して世界を見ているかのような、奇妙な現実感の欠如に包まれていた。


その原因は、幼馴染の網原(あみはら)アカネという少女の静かな変容にあった。


ほんの数週間前まで、アカネは文字通り太陽のような存在だった。


少し口は悪いが、その根底にあるのはいつだって曇りのない正義感と、弱い者へ向けられる不器用な優しさ。その危うげで、しかし眩しい輝きに、物静かで内気なハルナはずっと憧れ続けてきた。


しかし、ある日を境に、その太陽は厚い雲に覆われたかのように輝きを失ってしまった。


「アカネ……また行くの?」


放課後の教室。


帰り支度を始めたアカネの、どこか以前よりも小さく見える背中に、ハルナはほとんど無意識に声をかけた。


行き先は聞くまでもない。ゲームセンターだ。


あれだけ好きだったヒーロー漫画も読まず、何かに取り憑かれたように、彼女は騒々しい電子音の洪水の中へ毎日姿を消していく。


「……別に、お前には関係ねえだろ」


ポケットに手を突っ込んだまま、吐き捨てるようにアカネが言った。


「ううん、そんなことないよ。アカネ、最近なんだかすごく……辛そうだから」


ハルナは心配を押し殺し、できるだけ普段通りの声色を装ってアカネの顔を覗き込む。


その瞳は、不機嫌という硬い殻の奥にあるはずの柔らかな本心を見透かそうとするかのように、優しく、そして少しだけ悲しげに揺れていた。


その純粋な善意の眼差しが、アカネの心の見えない棘をチクリと刺激したのだろう。


彼女はバツが悪そうに、ハルナから顔を背けた。


「……別に、何でもねえよ」


その横顔は、ハルナの知らない固く強張った表情をしていた。


ハルナは知らない。


アカネがあの日、たった一度だけ魔法少女になり、その代償として、決して消えることのない痛みの記憶を右手に刻みつけられてしまったことを。


そして、ヒーローになるという夢を、たった一日で自らの手で放棄してしまった後悔と自己嫌悪に苛まれていることを。


アカネは逃げるように教室を飛び出した。


一人残された教室で、ハルナは言いようのない不安に包まれていた。


親友がどんどん遠くへ行ってしまう気がする。自分の知らない、とても危険な闇に一人で飲み込まれていくのではないか。


漠然とした、しかし確信に近い恐怖が、彼女の心を冷たく重く支配し始めていた。


その日の夜、ハルナは塾の帰り道を一人でとぼとぼ歩いていた。


アカネがいればなんてことのない夜道。でも一人だと、街灯の影や路地裏の暗闇がやけに不気味に見える。


(……考えすぎ、だよね)


最近、テレビで時折報じられる原因不明の不審な事件。そのせいで少し神経質になっているのかもしれない。

ハルナは自分にそう言い聞かせ、早足で家へ向かった。


彼女は知らない。


その不審な事件こそが、アカネが放棄した仕事のせいで育ち始めた「蝕花」などというバケモノの仕業だということを。


そして、その脅威が今まさに、自分のすぐ側まで迫っているということを。


自宅への近道になる、人通りの少ない公園を横切ろうとした、その時だった。


ゴトン。


背後で、重い鉄の塊が地面に落ちるような鈍い音がした。


ハルナはビクリと肩を震わせ、心臓が跳ね上がるのを感じながら、ゆっくり振り返った。


そこにいたのは、人間ではなかった。


月明かりの下、公園のジャングルジムを飴のようにへし折りながら、ゆっくり立ち上がる異形の何か。


硬い蕾のような頭部。


全身から突き出した無数の鋭い刃。


錆びた鉄と湿った土の匂いが、風もないのに鼻腔へ流れ込む。


ハルナの脳が、目の前の光景を現実として認めることを拒絶した。


悲鳴さえ、凍りついた喉からは出てこない。


怪物が、その複眼のような瞳をゆっくりとハルナに向けた。


耳の奥で気圧が半歩だけ沈み、足裏の砂が細かく鳴った。


その瞬間、金縛りが解けたように、ハルナの足は意志とは関係なく勝手に動き出していた。


逃げなきゃ。


逃げなきゃ、殺される。


その原始的な本能だけが、彼女を突き動かしていた。


しかし、人間の足が超常の捕食者に敵うはずもない。


数歩も進まないうちに、背後からヒュッと風を切る鋭い音が迫る。


ハルナは咄嗟に鞄を盾にし、腕で頭を庇った。


次の瞬間、全身を猛スピードの鉄骨で殴られたかのような凄まじい衝撃が襲う。


視界が一瞬だけ真っ赤に染まった。


身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。その浮遊感の中で、彼女の意識は急速に暗転していく。


頬の皮膚が冷たい砂に擦れ、遅れて鉄の味が舌に滲む。


薄れゆく意識の最後の最後に。


彼女は、なぜか、アカネの心配そうな顔を思い出していた。


(……アカネ……助けて……)


その声にならない祈りは、夜の闇に虚しく吸い込まれていった。





意識が、ゆっくりと、白い霧の中から浮上してくるようだった。


最初に感じたのは、消毒液の、鼻腔を鋭く刺す、清潔で無機質な匂い。


次に、全身を覆う、まるで分厚い鉛の板を乗せられたかのような、重い倦怠感と鈍い痛み。


そして、自らの呼吸に合わせて、ピッ、ピッ、と規則正しく鳴り響く無感動な電子音。


ハルナは、ゆっくりと重い瞼を持ち上げる。


それは、まるで何年も動かしていなかったかのように億劫にも感じられた。


ぼやけた視界に、見慣れない天井の無意味な染みが映る。


(……ここ、は……?)


公園で、あの怪物に……そうだ、襲われて……。


「――ハルナ!」


「ハルナ、気がついたの!?」


声がした。


見れば、ベッドの脇で母と父が涙でぐしゃぐしゃになった顔で、自分の顔を覗き込んでいた。


その瞳には、深い安堵と、まだ拭いきれない恐怖の色が痛々しいほどに浮かんでいる。


医者の話では、奇跡的だったらしい。


あの公園で、血まみれで倒れているのを、早朝の散歩をしていた人に発見されたこと。


全身を鋭利な刃物で切り刻まれたような、凄惨な状態だったこと。


それなのに、こうして一命を取り留め、わずか数日で意識を取り戻したこと。


ハルナは、両親の言葉を、どこか遠い世界の物語のようにぼんやりと聞いていた。


あの衝撃、自分の身体が、まるで熟れた果実のように、無残に砕け散るあの感触は、確実に死んだと思った。


それは、決して夢ではなかったはずだ、それなのに生きている。


身体はとても痛むけれど、それ以上に両親をこんなに心配してさせてしまったのが、ハルナにとってはそれ以上につらかった。


「ごめんなさい……」


「ううん、ハルナは悪くないから。 ゆっくり休んで、ちゃんと治すのよ」


良かった、良かったとこぼす両親をみて、ハルナも本当に生きていて良かった、と感じていた。



その日から、ハルナのリハビリ生活が始まった。


幸い、身体に麻痺などの深刻な後遺症はなかった。


ただ、全身の皮膚には、あの日の悪夢を生涯忘れることがないようにと刻みつけられたかのような、痛々しい傷跡が無数に残っていた。


そして、何よりも、彼女の心を蝕んでいたのは目に見える傷ではなかった。


目を閉じれば、今でも鮮明に蘇るあの怪物の異様な姿。


いつまた、あの怪物が現れるかもしれない、という消えない恐怖。夜ごと、悪夢にうなされては汗びっしょりになって飛び起きる日が続いた。


そんな、ある日の午後。


アカネが、ハルナと同じ病院に運ばれてきたという知らせが、ハルナの母親を通じて耳に入った。


廃工場で倒れているのを発見された。


奇跡的にほとんど怪我はなかったが、原因不明の昏睡状態に陥っている、と。


ハルナは、自分の怪我がもどかしいのも忘れ、リハビリの合間を縫って、アカネが眠る病室へと向かう。


「アカネ……」


眠り続ける親友の手を握りながら、ハルナは、自分の無力さを呪った。


アカネが、自分と同じように、あの怪物に襲われたのだとしたら。


自分に、もし、アカネを守れる力があったなら。


後悔と、祈りと、そして、言いようのない恐怖。


その全ての感情が、ハルナの心を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜていた。



アカネが、入院してから夜が明けたけれど、ハルナの心は焦燥感で一杯だった。


アカネが、自分と同じようにあの怪物に襲われたのだとしたら、次は、自分の両親かもしれない。あるいは、学校の友達かもしれないし、また、私かもしれない。


いつまた、あの悪夢が繰り返されるか分からない。


その恐怖が、鉛のように、彼女の心に重くのしかかっていた。


そんな、ある日の夜。


アカネの病室から戻り、一人になった自室で、ハルナが眠れずにただぼんやりと窓の外を眺めていると、小さな声が彼女に話しかけてきた。


「――こんばんは」


ハルナは、ビクリと肩を震わせ声のした方を見た。

窓際に、月の光を背にして、ちょこんと座っている小さな影。


フェルト生地でできた、ぬいぐるみのような生き物。


「僕はトリリウム。君に、話があって来たんだ」


ハルナは、恐怖で声が出なかった。


しかし、そのぬいぐるみは、あの怪物のような威圧感はなかった。


そのガラス玉のような瞳は、全てを見透かすような、静かな知性を宿しているように見えた。


トリリウムは、静かに、しかし、はっきりと、全ての真実を語り始めた。


あの怪物が蝕花と呼ばれる、この世界を蝕む存在であること。


そして、自分が生き残ったのは決して偶然ではないこと。


ハルナの内に、蝕花と戦うための魔法少女としての、強い素質が眠っていたからなのだと。


「君が、あの時、無意識に放った魔力が、君自身を、最悪の事態から守ったんだ」


それは、真っ赤な嘘だった。


しかし、恐怖と無力感に苛まれる少女の心を掴むには、十分すぎるほど甘い、希望という名の毒だった。


「……私が……魔法少女……?」


ハルナは、信じられない、という顔で、自分の手のひらを見つめた。


包帯の隙間からのぞく、生々しい傷跡。こんなにも無力で弱い自分が、そんな特別な存在であるはずがない。


「そうだよ。君には、あの蝕花を倒せる力を、得られる資質があるんだ」


トリリウムは優しく、しかし、有無を言わせぬ口調で続けた。


「また、いつ、誰が、あの怪物に襲われるか分からない。でも、君にはそれと戦う資質がある。君のパパとママだって、そして……君の大切な親友……今、眠っているアカネちゃんだって、また、危ないかもしれないよ?」


――アカネが、危ない。


その一言が、ハルナの心を鋭い棘のように貫いた。


眠り続ける親友の顔。自分を心配してくれる両親の顔。


もう、誰も、あんな怖い思いをしてほしくない。


怖い。


戦うなんて、絶対に嫌だ。あの痛みも、恐怖も、二度と味わいたくない。


でも。


でも、もし、自分にしかできないことなのだとしたら。


もし、自分が断ったせいで、両親が、アカネが、取り返しのつかないことになったとしたら。


それは、自分が死ぬことよりも、ずっと、ずっと怖いことだった。


「……やります」


ハルナの唇から、震える、か細い声が漏れた。


「……私が、魔法少女に、なります」


それは、ヒーローに憧れたアカネの決意とは全く違う。


ただ、大切な人を守りたい一心だけで自らの恐怖と痛みを天秤にかけ、絞り出したあまりにもか弱く、優しい自己犠牲の祈りだった。


「……ありがとう、ハルナ」


トリリウムは、満足そうに頷いた。


「でも、一つだけ、約束してほしい。このことは、絶対に、誰にも話しちゃいけないんだ。アカネちゃんや、両親でもだ」


「……どうして……?」


「魔法少女の正体は、絶対に知られちゃいけないんだ。もし知られたら、普段から狙われちゃったりして、いざという時に、みんなを守れなくなってしまうかもしれないからね。これは、君と僕だけの、大切な秘密だよ」


トリリウムは、そう言って、ウインクしてみせた。


ただでさえ日常から外れた魔法少女というものに、そういうものなのかとハルナはうなずいてしまう。


月の光だけが、悲しい約束を、静かに照らし出していた。

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