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きらめきと、甘いお誘い

 放課後の教室は、夕暮れの優しい光に満ちていた。


 窓から差し込む西日が、使い込まれた机の木目を金色に染める。


 空気に浮かぶ埃は、星屑のようにきらめいていた。


 グラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声、吹奏楽部が奏でる少しだけ音の外れたメロディ、そして、まだ教室に残った友人たちの他愛ないおしゃべり。


 その全てが、小鳥遊たかなしユメの世界を形作る、穏やかで、どこまでも平凡な日常の一コマだった。


「ねえユメ、週末に駅前にできるクレープ屋さん、もうチェックした?」


「もちろん! 限定のイチゴクリームショコラ、絶対食べなきゃ!」


 机を寄せ合いながら、ユメは親友のミキと週末の計画に胸を躍らせていた。


 小鳥遊ユメは、どこにでもいる女子高生だった。


 陽に透けるような栗色の髪を肩のあたりで結び、笑うと少し八重歯がのぞく。


 目立たないけれど、写真に写るといつも周りより明るく見える――そんなタイプ。


 本人に自覚はなくとも、その柔らかい光こそが、彼女の“日常”の象徴だった。


 明日の小テストのことなんて、頭の片隅にもない。それが、ユメの日常。それが、ユメの世界。


 大変なことなんて何一つない、砂糖菓子のように甘くて、優しい世界。彼女は、その中心にいることを、疑ったことすらなかった。


 友人たちが一人、また一人と「また明日ね」と手を振って教室を後にしていく。


 夕焼けが、窓ガラスを茜色に染め上げる頃。


 ユメは、そろそろ自分も帰ろうかと鞄に教科書を詰め始めた。


 教室はもう静まり返っていた。


 チョークの粉の匂いと、沈みゆく光だけがそこにある。


 その静寂を破るように――


「こんにちは! 君が、小鳥遊ユメちゃんだね?」


 声が、どこからともなく響いた。


 子供向けアニメのキャラクターのような、少し高くて、人懐っこい声。


 ユメは、はっとして顔を上げた。 教室はもう、静まり返っている。


 誰もいないはずのその空間で――声は、確かに聞こえた。


 声の主は、ユメの机の上にいた。


 光を受けて、まるでそこに“最初からあった”かのように。


 それは、まるで高級なファンシーショップに並んでいそうな、完璧なぬいぐるみだった。


 手のひらに乗るくらいの大きさ。柔らかなフェルト生地でできた、小動物のような身体。つぶらな瞳はガラス玉のように光を反射し、刺繍でできた口元は、にっこりと完璧な笑顔の形を保っている。


(え……なにこれ、かわいい……)


 最新のキャラクターグッズだろうか。それにしては、あまりにも精巧にできている。スピーカーでも内蔵されているのだろうかとユメはそれを見つめていた。


「僕はトリリウム! 君を探しに来たんだ」


 ぬいぐるみ――トリリウムは、嬉しそうに一度だけぴょんと跳ねてみせた。その動きは滑らかで、ぬいぐるみとは違うものだった。


 ユメは、目の前の非現実的な光景に、ただ瞬きを繰り返す。


 トリリウムは、そんなユメの困惑などお構いなしに、信じられないような話を続けた。


 この世界が、人知れず「蝕花(しょっか)」と呼ばれる謎の怪物に脅かされていること。


 そして、その怪物と戦えるのは、特別な素質を持った「魔法少女」だけなのだと。


「そしてね、その魔法少女に、君が選ばれたんだよ!」


 ――魔法少女。


 その言葉の響きは、ユメの心を鷲掴みにした。


 アニメや漫画で、何度も、何度も見てきた、あの存在。フリルのついた可愛いドレスを身にまとい、キラキラのステッキを振るって、みんなの笑顔を守る、光の中のヒロイン。


(私が? この私が?)

(え? まさか、うそでしょ?)


「魔法少女の勧誘なんて、急すぎたかな? でも時間がないんだ」


 心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。 しかし、その声で現実に引き戻された。


「で、でも、私、運動とか全然ダメだし……それに、そんなの、アニメの中だけの話じゃ……」


 か細い声で反論するのが、精一杯だった。そんな大役、平凡な自分に務まるはずがない。

 すると、トリリウムは励ますように、ぐっとユメに顔を近づけた。


「大丈夫! 大切なのは、運動神経なんかじゃない。世界を、みんなを『守りたい』って思う、その優しい心だけだから。君の心は、誰よりも綺麗で、強い魔力を秘めている。君なら、最高の魔法少女になれるよ!」


 その言葉は、わたあめみたいに甘くて、ふわふわしていた。


 ユメの不安は、その甘い肯定の言葉に、あっという間に溶かされていく。


 怖い。信じられない。でも、もし、本当だとしたら?


 誰も知らない世界の危機に、自分だけが立ち向かえる。退屈だった日常に差し込んだ、一筋の輝かしい光。それは、ユメにとって、あまりにも魅力的すぎた。


「……うん!」


 ユメは、ごくりと喉を鳴らし、決意を固めた。頬は高揚で赤く染まり、瞳は期待に潤んでいる。


「私、やる! やってみたい!」


 満面の笑みで答えると、トリリウムは心から嬉しそうに、もう一度ぴょんと跳ねた。


「ありがとう、ユメ! 君ならそう言ってくれると信じてた! これからよろしくね!」


 その日から、ユメの世界は色づいて見えた。


 授業中も、友達と笑い合っている時も、頭の片隅には「私は魔法少女なんだ」という、秘密の誇りが輝いていた。


 鞄の中に隠したトリリウムが、時々もぞもぞと動く気配がする。その、誰にも言えない秘密の共有が、ユメの心をくすぐった。


(早く変身してみたい。早く戦ってみたい)


 つらいことも、怖いことも、そんな話はトリリウムの口からは一度も出てこなかった。


 ユメはただ、輝かしい未来だけを信じて、その時が来るのを心待ちにしていた。


 彼女の心が、甘く、きらめくような予感で満たされ、最高潮に達する、その瞬間を――。



 そして、その日々は、夢の続きを歩くように始まった。


 トリリウムと出会ってから、ユメの世界は、まるで魔法にかけられたかのように輝き始めた。


 授業中、窓の外を眺めては、自分が空を飛ぶ姿を想像する。友達とのおしゃべりの最中も、もし今、怪物が現れたら、どんなカッコいいセリフを言って変身しようかと、胸をときめかせる。


 夜、ベッドに入れば、どんな可愛い衣装になるんだろう、ステッキはどんなデザインかな、と想像が膨らみ、なかなか寝付けない。


鞄の中に隠したトリリウムが、時々もぞもぞと動く気配を感じるたびに、二人だけの秘密を共有しているようで、誇らしい気持ちになった。


「ねえトリリウム、変身って、やっぱり『ドリーミィ・フラッシュ!』みたいな掛け声がいるのかな?」


「うーん、心で願うだけで大丈夫だけど、言ってみるのもカッコいいね!」


「じゃあ、必殺技は『シューティング・ローズ!』とか……!」


 そんな、どこまでも無邪気で、甘い期待に満ちた日々が、数日続いた。


 彼女の心が、きらめくような予感で満たされ、最高潮に達した、その瞬間を狙いすましたかのように。


 日常と非日常の境界線は、ガラス細工のように、あまりにもあっけなく砕け散った。


 親友のミキと、週末にオープンしたばかりのクレープ屋へと向かっていた、その時だった。


 空気が裂けた。


 アスファルトが震え、世界が悲鳴を上げた。


 商店街のアーケードが、巨大な何かに突き破られて、ガラスと鉄骨の雨を降らせる。人々の楽しげな喧騒は、一瞬にして恐怖の悲鳴へと変わった。


「ユメ、来たよ! 君の出番だ!」


 ユメの肩掛けカバンの中から、トリリウムが顔を出す。その声には、緊張感よりもむしろ、待ちかねていたと言わんばかりの弾むような響きがあった。


「う、うん!」


 恐怖よりも、使命感が勝る。私がやらなきゃ。みんなを守らきゃ。


 ユメはミキの腕を掴むと、「先に逃げて!」と叫んだ。

 

何が起きているのか分からず呆然とする親友を無理やり安全な方へと押しやり、自分は物陰へと駆け込む。


 心臓が、破裂しそうなほど速く、そして強く脈打っていた。


 それは、恐怖と、そして、ついにこの時が来たという武者震いが混じり合った、心地よい高揚感だった。

 

「心の中で強く願うんだ。『みんなを守りたい!』って!」


 トリリウムの言葉に従い、ユメはぎゅっと目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、ミキの怯えた顔、逃げ惑う人々の姿。


(みんなを、守りたい!)

 その純粋な祈りが、引き金となった。


「――ドリーミィ・フラッシュ!」


 光が爆ぜる。


 夢に見た変身バンクのような世界が広がり、


 光の粒子が優しい嵐のようにユメの全身を撫でていく。


 セーラー服が光となって霧散し、新たな輪郭が形作られていく。


 光沢のあるサテンでできた、深紅のクロップドジャケット。幾重にも重なり、動くたびに空気を含むチュールのフレアスカート。膝下までを優美に飾る、茨の編み上げが施されたブーツ。胸元で結ばれる、大きな白いリボン。


 想像していたよりもずっと可愛くて、完璧な魔法少女の姿が、そこに生まれていこうとしていた。

 ――すごい! 本当に、私が……!


 シルエットの手には、いつの間にか、黒い蔓でできた美しいステッキが握られていた。光が収束し、現実世界の色が戻ってくる。ガラスに映った自分の姿に、ユメは思わず見惚れた。


 最高の気分。最強の私。


 その、刹那。


 グサリ。


 脳に直接響くような、鈍く、生々しい音がした。


 右手に、焼けるような激痛が走る。


「……ぇ……?」


 見れば、ステッキを握っていたはずの右手甲。


 その白魚のような皮膚を、グリップから伸びた黒い棘が、深々と、容赦なく貫いていた。


 それは、ただ刺さっているだけではなかった。


 釣り針の“かえし”のように、逆向きの小さな針が無数についた逆さ針の棘が、皮膚を突き破り、その下の肉にまで、がっちりと食い込んでいる。


 傷口からは、一粒の血、などという生易しいものではない。裂けた皮膚の隙間から、じわじわと、しかし確実に、真っ赤な血が溢れ出し、黒い棘の根元を濡らしていた。


 高揚感で満たされていた心臓が、氷水で冷やされたように縮み上がる。可愛い衣装も、胸の高鳴りも、この一点の、あまりに生々しい痛みと光景によって、急速に色褪せていく。


「い……っ……た……」


 声にならない声が、喉から漏れた。


 何かの間違いだ。そう思いたくて、ステッキから手を離そうとする。


 しかし、指を開いても、ステッキはびくともしない。それどころか、離そうと力を込めるたびに、逆さ針の棘が肉をさらに抉り、耐え難い激痛が神経を駆け巡った。


 見れば、ステッキから伸びた細い茨が、手首に何重にも巻き付き、皮膚に食い込んで、物理的に彼女の手をグリップへと固定していた。


 これは、装飾じゃない。


 これは、武器じゃない。


 まるで、私を縛るための鎖みたいだった。


 夢にまで見た魔法少女の姿。

 

 その現実は、甘い期待を裏切る、血と痛みにまみれた、茨の夢の始まりだった。

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