1.我が子の生還
「ヒナ……!」
娘のヒナが目を覚ましたと聞いたとき、どん底にいた俺に、神様が慈悲をくださったのだと思った。俺も、妻の実花も無宗教だったが、このときばかりは本気で神の存在を信じた。
……実花。
妻は、ほんの三日前に、交通事故でこの世を去った。
俺が運転していた。一人娘のヒナと彼女を乗せた車を。久しぶりの、家族3人水入らずの旅行の最中だった。……ダメだ、頭がくらくらする。まだ、信じられないのだ。愛する人がもうこの世にはいないことを。それが、他でもない自分のせいだということを。警察や医者からの度重なる質問の数々に、俺の頭はショートし、今は誰の声も聞きたくなかった。
「記憶がだいぶ混乱してるし、今はあまり無理して話さない方が良いかと」
白衣姿の市ヶ谷悟は、冷静な表情で俺に告げた。彼は、俺たち家族の主治医なのだが、実は俺の高校時代の友人でもある。中学までのあの悪夢のような日々が過ぎ去ったあと、俺が初めて自ら受験先として選び、合格して入学した学校で出会った。そこそこできるやつが集う学校で、彼のようにトップクラスの者はこうして医者にもなれている。
俺たち家族はいつも、何か身体に不調があれば彼のいる「市立南山病院」を頼っていた。彼に診察をしてもらうとき、俺はどこか照れ臭い。同じ校舎で共に学んだ彼が、自分の不調を治すために真剣に話をしている様が、おかしくもあった。
娘の帰還という喜びを全身で噛みしめたいところだったが、市ヶ谷から釘を刺された俺はしゅんと肩を落とした。
「まあまあ、少しなら会って話すこともできるし、案内するわ」
「ありがとう」
俺が目を覚ましたとき、事故を起こした十二月二十四日からすでに三日が過ぎた、十二月二十七日だった。妻は、二十五日に息を引き取ったという。目覚めて混乱している俺にとって、その事実は些か現実味のないもので、泣き叫んだり茫然自失となったりする暇さえなかったのだ。
それからさらに四日が経過した今日。ようやく妻の死が現実となった絶望と、せめてもの愛する我が子が意識を取り戻した安堵感で、感情がごちゃ混ぜになっていた。
俺は看護婦に車椅子を押され、市ヶ谷と共にヒナが居るという病室へと向かった。幸い、俺の怪我は右腕の骨折と胸部の打撲だけだった。市ヶ谷から奇跡的だと告げられた。
せかせかと歩き回る看護婦や医者たちが、市ヶ谷に会釈して通り過ぎていく。俺たちは今年で四十二歳を迎える。市ヶ谷も随分と偉くなったらしい。
病院という場所は、いつも消毒液の匂いがする。子供の頃から、俺はこの匂いが苦手だった。
「ここだよ」
立ち止まった市ヶ谷がヒナの居る病室の戸をノックし、扉を開けた。
ヒナの病室は、俺が入院している病室とさほど変わりはないように思えた。ヒナのベッドの横にいる、一人の看護婦がこちらを振り返る。その身体に隠れていたヒナの顔が、一週間ぶりのその愛しい顔が、俺を痺れさせた。
「ヒナ……!」
我が娘——武藤ひなたは、チャームポイントであるぷっくりとした頬をこちらに向け、俺のことを凝視した。ヒナの身体は、妻の実花が事故直前に必死に抱きかかえて守ったこともあり、俺以上に軽傷で済んだとのことだ。こうして実際に目立った外傷のないヒナの身体を見ると、実花が自分の命を惜しまずに彼女を守ってくれたことが、俺の胸を熱くした。
「ああ、良かった……! 本当に良かった……。戻ってきてくれてありがとう、ひなた」
車椅子で彼女のベッドへと近づき、左手でヒナの頭を撫で、涙が止まらない俺を見て、ヒナの看護婦は驚いたのか目を丸くしていた。
それはヒナの方も同じだったようで、頭を撫でたあと彼女の目を見つめると、不思議そうに首を傾げた。 ふと振り返った先にいた市ヶ谷は、眉をひそめ、何かを考え込んでいるようだった。
なんだろう、何か、違和感を覚える。
この場にいる俺と、ヒナと、二人の看護婦と、市ヶ谷。
全員が、何かに心を研ぎ澄ませている。
俺は、愛しい我が子の顔をもう一度眺めた。
ヒナは、焦点の合わない目で俺の胸のあたりを見つめており、その目が俺に妙な焦りを覚えさせた。
病室の窓から吹き込んでくる風が、カーテンを揺らす。年の瀬の外気に、俺はブルっと身体を震わせた。