8.一人では生きていけないから
「武藤は? 大丈夫か、疲れてないか」
目の前の席に座っている田中さんは、俺のことをかなり心配してくれている。退院してからずっと。もちろんそれは、他の従業員も同様だが、昔から面倒を見てくれている田中さんはこうして何度も声をかけてくれていた。
「はい。……と言いたいところなんですけれど。ちょっと参ってるみたいです」
本当は月曜日の夜から皆の気持ちを暗くするようなことは言いたくなかった。竹田さんではないが、週の初めは明るく元気に過ごしたい。
そう思っているのに、朝起きてご飯を食べているときも、仕事の最中も、昨日の出来事が心の枷となっている。
「そうか。俺で良かったら話を聞くよ」
部下想いの田中さんが、仕事終わりで疲れているにもかかわらず、優しい言葉をかけてくれた。周りで話していた同僚たちが、心なしか声のボリュームを落とした気がした。
「……娘と喧嘩してしまったんです」
昨日、動物園でヒナと遊んだことを思い出す。途中まではヒナが喜んでくれる姿を見るのが嬉しくて心が舞い上がっていた。けれど、最後の最後、キリンを目にした時のヒナの反応が、記憶の中の彼女とあまりにも違いすぎて。頭がカッと熱くなった俺は、ヒナに心ない言葉を浴びせてしまったのだ。
「喧嘩というか、俺が一方的にヒナを責めたんです」
ヒナ、という娘の名前は、田中さんも知っている。職場では極力娘の名前を出さないようにしていたが、今回ばかりは頭の中が「ヒナ」で埋め尽くされていて、自然と口から溢れていた。
「分かってはいるんです。ヒナが悪いわけじゃない。あの事故が悪いんだって。事故を起こした自分が悪いんだって……。それでも、あんまりじゃないですか。妻と、ヒナの三人で過ごした日の記憶があるのが、俺だけだなんて。そんなの、耐えられないじゃないですかっ……」
最後の方はもうほとんど嗚咽混じりになって。きっと田中さんだけじゃなく、皆にもかなり引かれているに違いない。大の大人が、職場でみっともない姿を晒しているだなんて。
カタン、と斜め前の席からテーブルの上に何かを置く音がやけに響いて聞こえた。
「すみません」
何も悪いことをしたわけでもないのに、音を立てた竹田さんがぺこりと頭を下げた。
「いや……大丈夫」
あまりに必死に話をする俺のことを、気がつけば同じデスクの島にいる同僚全員が心配そうに見守ってくれていた。急に、頭がすーっと冷えていくのを感じて、「ここは職場だ。冷静にならなければ」と理性が働く。いつもの癖で、ヒナのことを考えるとつい頭が熱くなり自分を制御することができなくなってしまう。いい加減この癖は治したい。せめて職場にいる時ぐらいは。
周囲の人たちに申し訳ない気持ちがして、俺は竹田さんと同じく「すみません」と呟いた。「謝らなくていいさ。しんどいよな。俺にはそういう経験がないから、軽いことは言えないけど、お前はよくやってるよ、本当に。男手一つで年頃の娘さんを育てているんだから。しかも、記憶のこともあるし。大変だろうって皆分かってるから」
田中さんは子供に言い聞かせるように、俺を安心させようとしてくれた。
他人から、こんな温かい言葉をかけてくれる日が来るなんて、子供時代の俺に予想できただろうか? 「悪魔」と呼ばれ続け、実際に人を傷つけてばかりだったあの頃の俺に。事故に遭ったと知ったとき、やっぱり俺の人生は灰色だったんだと悟った。どんなに順風満帆な生活を得ようとも、すぐに崩れてしまう運命だったのだと諦めていた。
けれど、どうだ。
周りを見回せば、職場では助けてくれる人がたくさんいる。田中さんや翔介さんに竹田さん。事務員さんにだっていつも気遣われてばかりだ。
ダメだなあ、俺。
もっと、周りを見なければ。俺は所詮、一人では生きていけない。誰かにずっと背中を押してもらっていることを、自覚するべきだ。
「……ありがとうございます。田中さんにも皆さんにも助けられてばかりで」
「そんなことないって。武藤がいることで助けられてる人だってたくさんいるんだし。ヒナちゃんだって、武藤がいるから立ってられるんだよ。それに、竹田さんだって」
田中さんがそう言いながら竹田さんの方を見て、柄にもなくニヤリと笑った。
「え、え、今のどういう意味ですか? なんかあたし、揶揄われてます?」
「ふっ。相変わらず反応に飽きないな、瑠里ちゃんは」
竹田さんの左隣から翔介さんがいつものように攻める。竹田さんがいじられている間、俺はパントマイムでも見ているような気分になる。彼女がいじられる原因は自分だって分かっているんだけれども。
「また先輩たちがこぞっていじめてくるんですね〜。もう、いいですよ。あたし、一人たくましく生きていくんですから」
ふんと、腕を組んで「女一人で生きていく勇ましい姿」を演出する竹田さんだが、その幼気な姿が妙に可愛らしい。翔介さんをチラと見ると、彼は自分でも気づいていないだろうが頬を緩めていた。
「皆さん、ありがとうございます。なんか、元気出ました」
「お安い御用です」
胸を張って答える竹田さん。「お前が言うな」と鋭いツッコミを入れる田中さん。そんな二人を見てケタケタ笑っている翔介さん。
これ以上、暗い顔なんてしちゃダメだ。
心配してくれる人たちのためにも、必要以上に後ろを向くのはやめよう。ヒナと過ごす未来だけを見据えて。