7.明るくなる存在
「おはようござます」
翌日、昼過ぎに出勤すると、竹田さんが昼間だというのに「おはよう」なんて口にするものだから、俺もつられて「おはよう」と返した。
「あら、なんか武藤さん、疲れてません? 今日は月曜日ですよ!」
天然などと皆から言われる竹田さんだが、実際は勘が鋭いのかもしれない。昨日の失敗を引きずっていた俺の鬱々とした気分が伝わってしまったようだ。
「いや、むしろ月曜日から元気なの、竹田さんぐらいだろ。若いって素晴らしいな」
ははっと横から口を挟んできたのは田中さん。事務所の中では一番年配の田中さんだが、彼は彼でいつも陽気で元気だ。
「えー、だって土日に元気を回復するんでしょう。皆さん月曜日は元気なんじゃないんですか。あたしだけですか。まあ、いいです」
口を開けば誰かからからかわれる彼女は、周りから愛されている証拠だと気づいているだろうか。
彼女を見ていると暗かった気分が少しだけ明るくなり、俺はコーヒーを飲んで今日の仕事を始めた。
どんなに私生活で不安なことがあっても、仕事をしていれば幾分か気持ちが慰められた。行く前は絶対今日は仕事なんかできないと思うのに、不思議なものだ。むしろ、不安を忘れたいから、現実から逃れたいから、俺は仕事に没頭しているのかもしれない。
「精が出るねえ」
授業と授業の合間の十分休憩にも次の授業の準備にあくせくしていたら、翔介さんが声をかけてくれた。
「いや、そんなことないです」
そういう翔介さんだって、普段から朝早く出勤し、準備を完璧にしている。面白おかしく場を盛り上げてくれるキャラクターが定着しているが、実際は陰で人の倍働いているから、人は見かけによらない。
「定期テスト前だもんな。まったく、なんで俺たちはこの歳になっても定期テストに追われてるんだか。これじゃ学生の時と変わらねーよな」
はは、と自嘲気味に笑う翔介さん。確かに俺もそう思うが、この業界に入ってから諦めていたことだ。
「そういえば翔介さんはなんで、塾講師になろうと思ったんでしたっけ」
今まで聞いたことがあるようでなかった翔介さん自身の話を聞いた。塾講になる人間はほとんどの場合、教師を目指していたが教員採用試験に落ちたパターンか、そもそも民間企業で働きたいという考えで講師を目指していたパターンだ。俺は後者の方だが、翔介さんはどっちなんだろう。それともまた別の想いがあるんだろうか。
「たいしたことないさ。ただなんとなく、人を楽しませる仕事がしたかっただけ」
その答えは、翔介さんらしいといえば翔介さんらしく、「なんとなく」で就いた職業でも、これほど面白く生徒に人気がある講師になれるのは、彼の努力の賜物なんだろうと思う。
じゃあ、授業始まるから行ってくるわと、それだけ言い残して彼は事務所から出て行った。俺も今から授業だし、また今度時間ができた時にでもゆっくり聞くか。
それから四十五分の授業を四コマ連続で繰り返す。午後六時から午後九時半頃までぶっ通しで授業をするため終わった頃には毎日へとへとになる。体力的にもそうだが、生徒の成績を上げなければ保護者からクレームがくるため、メンタルも堪える仕事だ。
「もう、今日めっちゃ大変だったんですよー」
午後十時に授業を終え、明日の準備をしていた俺の斜め前の席から、とても「大変」とは思えないような竹田さんの明るい声がした。
「定期テスト、すっごい範囲広いって生徒から聞いて。急いでテスト範囲進めてたら『早い』って怒られるし。ああ〜月曜日から憂鬱だなー」
朝とは言っていることが逆だ。そういうところがまた良いところなのだけれど。
「いやいや、全然しんどそうじゃないじゃん。竹田さん若いんだし」
「ひどいです。こう見えてあたしだって疲れてるんです」
相手がふた回りほど歳の離れた上司でも態度を変えない竹田さんは相当強者だ。俺なんて、入社したての頃は先輩たちの顔色を伺ってばかりだったというのに。