6.「初めて」を繰り返して
「それじゃ、続きを見に行きますか」
「うん。あ、でも、その前に」
ぐう、とヒナのお腹が鳴り、二人で顔を見合わせて笑った。あまりのタイミングの良さに、ヒナには芸人の才能でもあるのかと疑ったくらいだ。
「ご飯食べようか。何が食べたい?」
「あれ!」
ヒナの反応は早かった。よっぽどお腹が空いていたのだろう。彼女は、前方にあるキッチンカーを指差していた。ポップなデザインが施されたそのキッチンカーはピザやポテトなんかを販売しており、お昼時のいま、たくさんの人が並んでいた。
「いいね。父さんもあれが食べたい」
ヒナと一緒に長蛇の列に並ぶ。普段の俺なら、こういう待ち時間が苦手なのだがヒナと二人なら全然苦痛じゃなかった。
やがて俺たちの順番が訪れて、俺は「ベーコントマトピザ」を、ヒナは「マルゲリータピザ」を注文。全部食べきれかったヒナは、残った半分を俺の皿の上に置いた。当然のようにそれにもパクつくと、かなり腹はいっぱいになった。
ピザを食べたヒナは満足そうで、さながら芝生にゴロンと寝転ぶパンダのようだった。この動物園にパンダがいないのが悔やまれる。
「今度、パンダも見に行きたいな」
「パンダ? 見たい!」
ポロッと、頭で考えていたことがつい口に出てしまう。ヒナをパンダに見立ててしまったなんて言えないけれど。愛くるしいふわふわの動物を想像したヒナは満面の笑みを浮かべた。
昼食をとったあとも、二人でのんびりと動物園を散策した。爬虫類のいる建物に入ると、「うぎゃ」とか「キモチワル!」とかリアクションに忙しいヒナが面白かった。
ゴリラにサル、カピバラにウサギ、と多種多様な動物を見て、最後にキリンがいる場所に到着。てっきり「サファリゾーン」にいるものかと思っていたが、出口近くに大きなスペースで区切られた場所にいて、VIPなのかと理解した。
「キリン、でかい」
ぬっと首を伸ばして長い脚で歩くキリン。いつか、家族三人でキリンを見た日を思い出す。俺の記憶では、最近の出来事のような気がするのに、思えばあれは十年も前のことだ。ヒナが大声で泣き出した時の焦りを思い出し、一瞬ズキンと頭が痛くなった。なんだろう。頭痛なんて、普段はあまりしない方なので気になったが、一瞬のことだったのですぐにどうでもよくなってしまった。
「お父さん、わたし、初めてキリン見た!」
嬉しそうにはしゃぐヒナ。初めて、という言葉にまた切なくなる自分がいる。いかんいかん。今のヒナにとっては、「初めて」なことが多いのは当たり前じゃないか。そう分かっていた。それなのに、ヒナの「初めて」によって、俺が実花や小さなヒナと過ごした日々が一つずつ消えていくような気がして。悔しくて思わず「違うだろう」と低い声で呟いていた。
「え……?」
突然普段とは違う声で自分の言葉を否定されたヒナは、はっきりと当惑の色を見せた。
「ヒナは、初めてなんかじゃないよ。昔一緒にキリンを見たじゃないか。思い出せないのか?」
二歳の頃だけじゃない。ヒナとはその後も何度か動物園でキリンを見たことがある。それらはすべて、ヒナの記憶から消えてしまった。実花もいなくなり、覚えているのは自分だけ。どうしても拭えない孤独感とヒナと思い出を共有できない辛さ。一気に押し寄せる不安の波。そのすべてが、あらぬ方向へと俺を連れていく。
「ヒナ、泣いてたよな。キリンが怖かったって。大きくなってからもあんまり見たがらなくて。本当に、覚えていないんだな」
最後の方はもうほとんど記憶がない。ヒナに対して、言ってはいけないことを話していることだけは理解していた。どんどん、ダメだと心が叫ぶ声が大きくなる。
「……わたしは」
何か言いたげなヒナが、ぎゅっと唇を噛んで泣くのを堪えているようだった。
俺は何をしているんだ。誰か、教えてくれ。助けてくれ。実花。お前がいてくれたらどんなに良いだろう。俺、昔からカッとなるとすぐにこうなるんだ。だから、みんなから「悪魔の子」だなんて呼ばれて。ようやく卒業したと思ったのに。卒業できたと思っていたのに。また、繰り返すのか。
「ごめん」
俺たちの周りにいた夫婦や子連れの家族がそっと距離を開けた。娘を連れた大の大人がみっともない姿を晒しているのだ。関わらないでおこうと思うのが普通だろう。
「……」
ヒナは俺が謝っても黙りこくったまま、悲しそうに俯いていた。
失敗した。
彼女の気持ちを考えず、自分の心が暴走するのを止められなかった。
俺はそっとヒナの手を握る。彼女はその手を握り返しはしない。小学校高学年にもなって父親と手を繋ぐのが恥ずかしいとか、そういう感情ではないことは分かった。記憶のないヒナは、精神的にまだまだ小さな子供だ。握り返さないのは、きっと彼女の心が深く沈んでしまったから。
お互いに無言のまま動物園の入り口を出て、車に乗り込む。これ以上は無理だった。一刻も早くここから離れ、日常に戻りたい。いやそもそも、こんな状況で日常に戻れるかさえ分からなかったが、思い入れの深い動物園から出なければならないと、心が警告した。最初は、思い出があるからこそ彼女が何かを思い出すきっかけになるかもしれないと期待していたのに、今ではその思い出が仇となってしまった。
自分が一番冷静でいなきゃいけないのに、できない。
子供のことを一番に考える。それがこんなにも難しいなんて。今更ながら、暴力的だった自分の幼少期のことが思い起こされて深く反省した。母さん、父さん。俺はずっと二人がこんな想いで俺と向き合おうとしてくれていたのに、全然省みなかった。知らなかったんだ。今でも自分しか見えない、俺には。
アクセルを踏み、車を発進させる。疲れているだろうに、ヒナは眠ることなく、ぼうっと窓の外を眺めていた。その目には一体、何が映っているんだろう。単なる外の景色以外に、彼女の心は何を見ているんだろうか……?